微笑みの国の路上犬 (8)塀を越えて

微笑みの国の路上犬 (8)塀を越えて
(塀の向こう側の犬たち)

ハナの脚の回復が進み、治療もとくに必要なくなった頃、私とKさんは新たにタイガーとスノーのレスキューの実行に向け準備をはじめていた。約束の日曜日、Kさんと私はポンさんの訓練所を訪ねた。『看板もなく、辺鄙な場所にあるけれど、びっくりしないでくださいね。』とKさんにあらかじめ話しておいた。
これといって目印のない地味な古い住宅地の奥へくねくねと車を走らせた。この小さな住宅地は何度来ても枝道を間違える。いきついた先の青い門を入ると、そこにひっそりと木立に囲まれたポンの庭と訓練所の広場がある。私はここに来るとなぜかホッとする。まるで田舎のおばあちゃんの家のような隠れ家的存在なのだ。

宣伝は一切しないにもかかわらず、口コミでお客さんがつき、常に20-30頭の犬が4ヶ月の訓練コースをうけている。

久々の再会を笑顔で出迎えてくれたポンさんとご主人のジョーさんに、Kさんを紹介した。ポンさんたちとスタッフに、塀の中に幽閉された生活をしているタイガーとスノーの写真を見せ、今までの詳しいいきさつをKさんが話してくれた。

– 彼らは数年前、地域の路上犬のレスキューの方に去勢手術を施してもらったが、また塀の中に戻されてしまったこと。
– そのとき、たぶん1回だけワクチンをしたはず。
– 以前は多頭いたようだが、塀の中で死んだ犬もいるらしく、最後の2頭であること。
– Kさんが知った時は3頭だったが、そのうち1頭が病気になったのでKさんたちがレスキューして病院に運んだが、亡くなった。死因をさぐるため病院で脳を検査したところ、狂犬病ではなかったこと。
– えさは周りの屋台のおばさんやKさんが協力して毎日あげてきたこと、などなど。

そして私たちは、壁の中の2頭のレスキュー計画を説明した。

『6ヶ月ほど彼らの社会復帰のための保護に協力してくれる場所があれば、捕獲保護を実行したいのです。素人目には、皮膚病もないし、割と健康な犬だと思うのですが』との私の言葉に、ポンさんはまじめな顔で答えた。

『問題は彼らにワクチンの抗体ができるまでの間です。今の土地で健康でも、ワクチン後、空気中や他の犬の菌に対する抵抗力がない時期に感染する危険性があり隔離が必要です。また、万一、狂犬病やパラボ、アデノなどのウィルスの症状が発病して、訓練所で発生した場合、この訓練所に預けられているすべての犬と訓練所の経営そのものにダメージを与えます。』

もっともな心配であった。ちょうどその日は、出入りの獣医エー先生がチェンマイから犬の注射のために駆けつけていた。久々にお会いするエー先生は、私の犬ALEXの最初の獣医であり、またポンさんの訓練所を紹介してくれた方である。現在は軍関係の任務で北のチェンマイに滞在中とのこと。先生は、タイガーたちの写真を見て『健康状態はいいと思いますよ。』とポンさんにアドバイスしてくれた。最終的に彼女は、他の犬と離れた場所に犬小屋を設置して隔離時期に協力する、との心強い回答をくれた。また費用はポンさん個人としては無料で協力したいが、事業としてやっているため従業員の目もあるので、通常より安い価格で預かってくださる、ということに話がまとまった。捕獲後スムーズであれば、ワクチン後、1- 2週間でこの訓練所に持ち込む約束をした。

さて、保護をどう実行するかを具体的に話し合った。保護といっても実際には、逃げ回る犬たちを‘捕獲’する作業といったほうが正しいであろう。

Kさんは動物保護活動をしているタイ人の友人の紹介で、捕獲のプロをご存知とのことであった。死にそうなオレオを保護したときにお願いしたソムヨットさんという男性で、吹き矢で麻酔を打ち込める技術をもっているらしい。『いったい何の職業なのかしら?』と興味津々でKさんに聞くと、『○○○○○動物園の職員だそうよ。前に会ったとき、そういうユニフォームを着ていたわ。』とのこと。もちろん謝礼を払う必要があるが、野生動物の捕獲に近い作業をするのは私たちのような普通の女性には無理なので、ソムヨットさんが協力してくれると聞き安心した。捕獲は10月24日に決行することにした。時間は、道路沿いの屋台が引ける人の少ない午後3時前後。

捕獲に必要な技術と人、大型クレートや網などの道具は、ほぼ準備OK。

肝心な塀の中への出入りの方法はどうするか?正式に地主の許可を得て、などと悠長なことを言っている暇はなかった。正面の大きな柵門は開かない。左右は他人の敷地。犬のいる土地の塀沿いに土がもりあがり、塀の上部に比較的容易に届きそうな場所がいくつかあるとのこと。1つは左側の塀と土地を接する他の敷地で門に施錠。これは、鍵の管理人にあたってみたが、当日開けてくれるかはっきりわからない。駄目な場合、右側の塀を接するお屋敷におじゃまして、よじ登る許可を請うしかない。

私は何日も前から、当日の捕獲のイメージを描き、すべてうまくいくよう心の中で念じていた(笑)。Kさんは、9月に亡くなった仲間の犬、オレオの骨壺を保管しているのだが、『オレオ、この保護が成功するよう見守ってね』と話したという。

レスキュー当日は、うす曇のあまり暑くない天気だった。動物園のソムヨットさんはアシスタント1名を連れてやってきた。結局、左の敷地の扉は誰もいなくて開けることはできなかった。ソムヨットさんたちは、早速、麻酔注射の吹き矢の準備をした。タイガーとスノーを正面の柵門から届く壁際に呼び寄せる役は、Kさんや屋台のおばさんなど犬と顔なじみの方が担当。1メートルほどのパイプに挿入した、吹き矢式の麻酔の注射器を口で吹いて発射する。結構な距離飛ばすことができるが、潅木が多く、犬もすばやく動くのでなかなか当たらない。そのうち、犬たちも異常事態に気がつき警戒を強め、逃げの体制に入り、正面の柵門から遠ざかってしまった。塀の外からでは吹き矢の届く距離に限度があった。中に入る必要があった。

私は、迷わず右側のお屋敷の門のブザーを押した。しばらく無反応だったが、ようやく自動扉があき、メイドが大きな犬と一緒にいぶかしげな顔でできてきた。『大変申しわけないのですが、お宅の隣の敷地の塀の中の犬2匹を保護するために、お宅の塀をよじ登らせていただけませんでしょうか?』 メイドさんは塀の中の犬たちのことを知っていた。『今、ご主人様は留守なのでいいですよ』とのこと。

塀の上には侵入防止の有刺鉄線、電話線などのケーブルもが這っており注意が必要だ。あらかじめ準備したシートを壁にかけて、有刺鉄線に引っかからずに登り降りできるようにした。うっかりしたことに、鍵があれば門扉が開くこと期待して、梯子の準備を怠った。予想外に高い壁をよじ登れる高さまでの足場がない!
そこで屋台のおばさんの商売道具のプラスチックの椅子を借りて、1メートル以上に積み上げたものを足がかりにして、塀を登って内側に降りてもらった。男性2名が降りたとたん、犬たちは警戒心をあらわに逃げ回りはじめた。その素早いこと。

外野で見守るこちらからは、犬が小休止している場面をみて、『ああ、今なら麻酔を打ち込めるのに。』と何度も思ったが、なかなか下で構えているソムヨットたちには難しいようである。汗だくになって薄暗い潅木の敷地をガザガザ行ったり来たり、待ち伏せしたり、すでに2時間がすぎようとしていた。何度か当たった吹き矢の麻酔薬も、興奮したタイガーたちの動きを止めるほどの効果がないのには少々驚いた。たしかに少しだけふらふらしている様子だが。

そこで、彼らは作戦を変えて、糸のトラップをかけ始めた。心配そうに見守るKさんも、やきもきしてきたようである。

犬が好きなのか野次馬か、見物人もあつまり、壁のすきまから覗き込んでいる。皆が見守る中、夕方5時を過ぎ、ついに小雨が降り始めた。 これ以上暗くなったらタイムアウトというときに、ソムヨットさんたち2人が重そうにクレートを抱えて塀のそばまで歩いてきた。なんと、いつのまにかタイガーを捕獲したらしい。またその15分後にはスノーもトラップにかかった。さすが捕獲のプロである。元気な動物は捕まえられない速さで動くので、くたくたに疲れたころに、動きも鈍り麻酔もあたりやすく、トラップにもかかりやすくなるので、2時間勝負は計算の上だったのか。

高い塀の内側と外側で5人がかりでクレートの受け渡しをした。タイガーは体重25KGほどと思われるが、上から降りてくるクレートを真下で受けとめるのは、3人でも非常に重かった。地面に下ろして、中の2匹の様子を見た。スノーは枯れ木の切り口で後ろ脚の先を傷つけたらしく血を流していた。タイガーは麻酔と興奮でお漏らしをしていた。2匹とも捕獲の恐怖で大変なストレスを受けたはずである。心のショックが薄らぐまでにどれだけの日数が必要だろうか。Kさんと私は、疲れきった様子の2匹を見て、『可愛そうに怖かったね、ごめんね』と思いながらも、『ああ、オレオありがとう、タイガーとスノーは塀を越えたよ。2匹を預かるよ』という気持ちでいっぱいだった。

クレートを車に積み込み、レスキュー後の検査受け入れ許可をいただいた動物病院へ直行した。病院へ到着し2匹に首輪をかけたが、麻酔がきいているのか抵抗しない。そのまま2匹はシャワールームへ運ばれ、生まれてはじめてのシャンプーを念入りに施された。私もアシストして首をささえながら、シャンプー中に皮膚をチェックしたが、不思議にも皮膚には1匹のノミもダニも寄生していない。とてもきれいな状態であった。先生は聴診器をあて『車の多い道端の土地に長くいたので肺があまりよい状態でないですね』という。スノーは脚の怪我の応急処置をうけた。2匹とも血液検査のための採血も済み、見慣れぬ病院という世界で、初めての一夜を過ごすことになった。それからしばらく、2匹は健康診断の経過をみるため病院で過ごすことなった。

N.O & K.A (続く)

 

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