Barry Eatonの「“D”は…..Dogの“D”」
Barry Eatonの「“D”は…..Dogの“D”」
というのは誰もが納得するだろう。しかしもう一つ“D”で始まる言葉があり、それはこれほどぴったりというわけでもなく、それゆえにこの何年間か盛んに論議が交わされてきたテーマでもある。その言葉とは、“Dominance (支配)”すなわち人間と犬との間の支配関係だ。
もう何年もの間、犬の飼い主たちは本やビデオや一部の犬の訓練士たちにより、犬に対してAlphaでなければならないと説得されてきた。そうでないと犬は人間よりも上になろうとするおそれがあるというのである。なんでも困った問題が起きたり、攻撃性が見られたりすると、多くの場合その犬が“支配的”であるがゆえに飼い主よりも上位に立とうとすることが原因であるとされてきた。これらの問題すべてに対する彼らの解決策は、ランクを引き下げる方策や“Pack Rules (群の法則)”の導入することであった。しかし今日では多数の科学者や、物理学者、動物学者、そして有名な犬の権威者達が、この“Dominance (支配)”という見方に異議を唱えている。そこで私は読者の方々に、犬と人間の関係における“Dominance (支配)”というものを、偏見にとらわれずに別の見方で考えてみて欲しいと思う。
Dominanceという概念を理解しようとするためには、まず犬の祖先である狼にさかのぼって考える必要がある。狼の群の構造は複雑でありうるが、話を分かりやすくするために、ここでは狼達は群単位で生活し、それぞれの群にAlphaをリーダーとする群の序列が存在するということにしよう。この序列は狼同士の儀式的行動にを通して確立された支配・服従関係をもとに決定され、かつ維持されている。ボディランゲージや顔の表情を用いることで、自分の地位を高めたり、あるいはAlphaになるための挑戦が行われるのである。しかしどちらがより支配的な立場になるかを決めるために、狼同士での真剣な勝負が起きることはまれである。なぜならそうなる前に一方が怪我を恐れて身を引くからである。重傷を負った狼は、自分で獲物を取ることができなくなるため、食物にありつけず、やがては死んでしまうからである。
この“儀式的行動”は、私達の飼い犬達の間でもある程度見受けられるが、それは進化の過程で薄れてきている。狼の群の中では、それぞれの狼の地位によって生死にかかわるような重大なことが決まってしまう場合が多々ある。しかし、公園で出会う犬達の間では、必要なものはすべて人間の我々によってあてがわれているために、犬達の地位によって得るもの失うものはそれほどないはずである。
このようにして、ボディーランゲージや顔の表情を含む儀式的な行動を取ることにより、狼と犬はそれぞれの種族内での相互の“Dominance (支配)”や地位の問題を解決するのである。
しかし、犬に対して我々人間が支配的になるべき、あるいは我々人間がAlphaでなければならないという俗説が蔓延している。どうやって我々は犬よりも上位にいることを、犬も理解できる犬の言語を使って彼らに伝えられるのだろうか。できるわけがない。人間は犬の行動を真似ることはできないのである。なぜなら人間は犬と同じ生体構造をもっていない。尻尾もなければ、耳の種類や形も違うし、犬のように唇を巻いたり、背中の毛を立てたり、瞳孔を開くことができないのだから。
人間社会で言われる“支配”とは“顕示的で影響力のある”ものを含む。人間は犬とは違って、人生において成し遂げたいことを事前に考え計画することができる。人間は、自分でビジネスを始めることもできるし、あるいは他の人に対してより支配的(優位)になることで、可能なところまでキャリアアップする道を選ぶこともできる。このように人間にとっては、その事を考慮し計画した上で、意図的な選択が可能だ。あるいはまた今の仕事に満足していて自分の地位を向上させようという願望を持たない人もいるだろう。これもまた意識的、長期的な決断である。犬は私達のようにある特定の状況について事前に考え計画することができない。それゆえに人間における“支配”の定義とそのアプローチの仕方は、犬の“支配”とは全く異なったものである。
それにしても何故犬がわれわれ人間よりも高い地位に自分をおきたいなどという考えはいったいどこから来るのだろうか?そうすることによって彼らは何を得るのというのだろう?彼らには望むものはすべて与えられている。水、雨風をしのげる住まい、最高の医療、運動、コンパニオンシップ、更にわれわれ人間が犬達のために作り出した様々なアクティビティーやスポーツ。人間と暮らす家庭犬は“群”という言葉が本来持つ群れの環境で生活しているわけではない。犬は社会的な動物で、人間もまたそうである。それゆえ両者は仲良く共存していけるのだ。一つの群れとしてではなく、社会的な単位として。
さてここで、犬と人間との関係において“支配”という言葉が果たして何を意味するのかを定義する必要がでてくる。支配というコンセプトは構成概念であり、誰も実際に犬がどう考えるのか分かるはずもないので、一つの理論である。犬がどう考えるかを科学的に証明できない限り、それはいつまでたっても理論の域をでない。しかし多数の科学者や犬の権威者達が犬の場合の支配とは“資源を(他者に盗られないように)守ること”と定義している。資源を守ることとは、資源を維持し、管理する能力をもつということである。しかしこれを地位と混同してはならない。犬にとっては、勝ち取ったもの、あるいは価値のあるものならなんでも資源となりうる。ある犬がある資源に対して制限なくアクセスを許されていたのに、飼い主があるとき突然にその資源を取り上げた場合、犬はそれを守ろうとするだろう。例えば生後8週間のパピーが、ソファーに座っている自分の隣にやってきて丸くなるのを許さないのは難しいことだ。むしろ誘ってしまうかもしれない。しかし、パピーはやがて成長し、毛むくじゃらの泥だらけの犬になってしまい、ソファーに座らせるということを許可したくなくなるかもしれない。そしてもう犬にそのアクセスを与えないことに決めたとする。しかしその頃にはもう犬はソファーで寝ることが当たり前になってしまっており、それを一つの資源とみなしていることだろう。ソファーは床や自分のベッドよりも寝心地がよいので、降りることを嫌がり、それを守ろうと攻撃的になることもありうるであろう。
犬に対して“支配的”という言葉を使いたいのなら、犬が価値を見出すものとはいったい何かを考慮したうえで、“資源を守ること”という定義が論理的なコンセプトのように見受けられる。この犬にとって価値のあるものとは、食べ物、水、住まい、寝場所、おもちゃで遊ぶことをはじめ、その犬自身や環境によって様々なものがあげられる。それにしても突き詰めればすべてが資源の問題なのだ。誰かがもっと具体的で分かりやすい定義を考えつかないかぎり、“資源を守ること”が犬と人間との立場において、犬が“支配的”であるという定義としてもっとも適当であるように見える。それにしても犬は飼い主に対してAlphaになるべくその立場を上げようと企てているわけではない。
犬はもちろん我々人間の生活様式と社会に適応していかなければならない。だから我々は彼らに行儀がよく、従順で、社交的な犬になってもらわねばならない。しかし、その目的を達成するために我々がAlphaやパックリーダーになる必要はない。ポジティブでやる気を起こさせるような方法で犬をトレーニングすることでそれは達成できるのである。犬を支配しようとする必要はないのである。これは言葉の問題であることは重々承知しているが、“Alpha”や“パックリーダー”や“支配”という言葉を避けることができれば、この群の階級という俗説を捨てて、犬をあるがままに、すなわち社会単位で生きる犬として、見ることができるのではないだろうか。(2007/12/19)(Barry Eaton)
Barry Eaton氏は英国ドッグ・トレーナー、1988年7月14日、知人のブリーダーから耳の聞こえないLadyというパピーを引き取り、トレーニングを始めた。試行錯誤の末、ハンドシグナルや顔の表情、ジェスチャーを使ってのトレーニングに成功する。耳の聞こえない犬達が生き延びられるよう、Hear, Hear という聴覚障害をもった犬用のトレーニングガイドを出版する。
また犬と人間の関係における”犬の支配”について、Dog Dominance: Fact or Fiction?という著書もあり、この本はDr.Ian DunbarやJean Donaldsonからも高い評価を受けている。
ある雑誌に掲載した原稿を翻訳、LWDに掲載の許可を得ています。
Barry Eaton’s WEB
翻訳者:MaxHolly&Noahのママ