Barry Eatonの「パックルールよ、安らかに眠れ」

Barry Eatonの「パックルールよ、安らかに眠れ」

トレーニングクラスでインストラクターが“パックルール”なるもののリストを読み上げ、あるいはそのリストをもらった経験のある人は沢山いることだろう。パックルールとは、犬が“支配的”になり、飼い主やその家族の上に立とうとするのを避けるために用いるべきとされているルールのことである。それはまた、トレーニングブックやビデオの中でもよく目にするものである。前回の記事の中で私は、最近多くの犬の権威者達が、より具体性があると考えるDominance(支配)についての見方の説明をした。それは地位ではなく、資源を守るというコンセプトである。もしこの“資源を守る”というコンセプトを受け入れるとすれば、パックルールなるものがなぜいまだに必要なのだろう?

あなたがどんな本を読まれたか、またどんな話を聞かされたかにもよるが、パックルールにはとても様々なものがあり、そのリストにも一貫性がない。しかしそれらはすべて狼の行動の観察をもとに作られたとされている。それにしても我々が犬に押し付けているこれらのルールが実際狼にあてはまるのかということを検討してみる価値はあると思う。

「犬に餌をあげる前に、人間は何かを食べなければならない」というのはおそらくすべてのリストの一番初めにあげられているものであろう。
このルールはAlphaの狼はどんな場合でも一番初めに食べるという誤解から来ており、それゆえに我々人間もAlphaとしての地位を強化するため、犬に餌をあげる前に何か食べなければいけないというのである。しかし野生の狼の群で実際に起こっていることを考慮してみると、このルールには欠陥がある。狼の群といってもその大きさは様々だろうが、仮に小さな群があって、その群が大きな獲物を殺したとしよう。その場合はパックメンバー全員がパック内での地位に関係なく一緒に食べる。その群の中に狼のパピーがいた場合には、彼らがまず食を与えられる。メスの狼は自分の遺伝子の50%をパピーに受け継がせているのである。彼女の優先順位は、パピーたちの生存を確保することであり、必要とあれば自分は食物なしでもやっていくであろう。したがってこれは“支配”とか“Alphaである”とかの問題よりも、むしろ資源、あるいは幼子達の生存、しいては種の生存の問題なのである。

それではなぜ犬はわれわれ人間が先に食べることの意義を理解するというのだろうか。するわけがない! 今日では犬を訓練する際、 “犬を支配する”やり方から、ありがたいことにクリッカーやご褒美を使ってのポジティブでやる気を起こさせるやり方に変わってきている。これらの方法はどちらも、犬がうまくできた時の褒美として食べ物を用いる。インストラクターも飼い主も犬のために袋いっぱいのトリーツを用意しているという現状なのだ。そしてトレーニングの最中に、飼い主もインストラクターも何も口にできないのに、犬はそのトリーツをすべて食べてしまうことさえあるのだ。犬にトリーツをぜんぶ食べさせて、我々人間が何も食べないからと言って、犬を“支配的”にしてしまっているのだろうか?もちろんそんなことはない!それならなぜ家で犬に餌をあげる前に、我々人間が何かを食べなければいけないのか?

「仕事や買い物から帰宅したときは、犬を無視すること」
これは人間がAlphaとしての立場を強化し、そして自分がそうしたいと思う時のみ犬をかまうのだということを認識させるためとされている。私も喜び勇んだ大きな犬が飛びかかるのは好ましい挨拶の仕方とは思わないから、飼い主は飛びつくことを止めさせる訓練をすべきではある。だが“ただ今”と声をかけたり、話しかけてもよいと思っている。なぜ無視するのだろうか?狼の群においても、Alphaが登場すると、下位の狼がAlphaに挨拶をしにやってきて、Alphaもこの儀式的な行動に加わるのだ。彼らを無視したりはしない。

「ベッド、いす、ソファーなどの家具に乗ることを犬に許してはならない」
犬にベッドやいすやソファーに乗ることを許すことにより、犬の地位を我々と同じ地位まであげてしまうという意味だそうだ。犬が家具に乗るのを許すことで我々が意に反して行っていることがあるとすれば、それは犬が資源を守ろうとする問題を作ってしまっていることであり、地位とは全く関係がない。犬は飼い主のベッドやいすやソファーを寝心地のいい場所と見てしまい、それらへのアクセスを許されていれば、そのアクセスが突然取り上げられた場合にそれらをガードしようとすることがある。狼も寝心地のよい場所を探すであろうが、それによって彼らの地位をあげようとしているのではない。犬だって同じことだ。

「リードを引っ張る犬は“支配的”である」
このルールを裏付ける理由としては、Alphaが先頭を行き、群の進路を決めるという思い違いがある。Alphaは道順を決めるかもしれないが必ずしも先頭に立つわけではない。だれが群の先頭を行くかは、若さの仕業や発情に左右されることもある。その場合にはAlphaでない狼が先頭になったり、また突進することもある。狼達はたいてい河川敷や獲物の通り道や古い道を辿る。そんなときは群はある広がりをもって進んでいくため、どんな狼でも一時的に前に出ることがありうるのだ。また繁殖期にはオスが通常メスの後になり、メスを守ったり、交配の準備をするとも言われている。

このように、この“ルール”の理由づけに反して、Alphaの狼は常に先頭を行くわけではないので、犬がリードを引っ張るのはその犬が“支配的”であり、またその地位を高めようとしているというのは、全く不当である。犬がリードを引っ張るのは、そうしないよう訓練されていないからであり、“支配的”であるからではないのだ。もっとも典型的なパターンとして、公園に向かう犬は早く行きたくて興奮のあまりリードを引っ張る。帰り道には犬は疲れているのでリードを弛ませて行儀よく歩く。この犬は公園への往きは“支配的”で帰りは“従属的”というのであろうか?

「ドアから出る時は決して犬を先に行かせてはならない」
飼い主がドアから先に出たほうがいいと私も考える場合がひとつあり、それは散歩に連れ出すときである。犬が公園に行きたくて興奮しながら玄関から飼い主を引きずり出すのはあまり格好のよいものではない。飼い主を先に行かせるかどうかは、トレーニングに基づいたよいマナーと安全面での問題であり、どちらが“支配的”であるかを表しているわけではない。犬同士のコミュニケーションと犬と人間の間のコミュニケーションは異なるのに、犬は飼い主より先にドアを出てはいけない理由を分かるというのだろうか。前述のルールにあるように若い狼が突進する場合、通り道の狭いところで、若い狼が立ち止まってAlphaを先に通すということはないだろう。

「犬との遊びや、飼い主の犬に対する注目を、始めたり止めたりするのを犬の思いのままにしてはならない」
すべての遊びはAlpha狼が始め、すべての注目もAlphaが決めるのだということらしい。実際には、群の仲間たちを巻き込んでのアクティビティー、たとえば遊びなどは、どの狼であってもやる気のある狼であれば始めることができる。すなわち狼の群はAlpha狼がゲームを始めるのを一日中黙って待っているというわけではないようだ。従ってやる気のある狼がゲームを始めることがあるのなら、同じようにやる気のある狼がなんらかの形で注目の口火を切っても当然いいわけである。

だったら、なぜ犬がボールを飼い主の膝にポンと落としたり、かまって欲しいと寄ってくることを許してはいけないのか?実際に遊ぶか、かまってあげるかは飼い主がきめることだが、だからと言って、“して欲しい”と求めてくるのをなぜ止めさせるのだろうか?

「引張りっこの遊びでは、決して犬に勝たしてはならない」
これは狼達が肉切れや骨を引っ張り合う際に、より強く“支配的”な狼が通常勝つというところからきていて、それはだいたい辻褄が合っているようだ。狼の群にとって食べ物にありつくことはそうしょっちゅうあることではないだろうから、肉片の引張りっこは群の一員にとっては生か死かの分かれ道を意味することもありうる。しかし、これはあなたのパピーや犬達のように一日に二度、三度、もしくは四度もの食事に加え、トリーツまでが与えられている場合には通用しない。引張りっこのおもちゃは肉片と同じ価値があるのだろうか、あるいは犬はそれをただのゲームと見ているのだろうか?犬は犬同士でもまた飼い主とでも敵対意識をもつことなく、引張りっこ遊びをすることが可能だ。しかしその場合のリスクとして考えられることは、犬は引張りっこのおもちゃを“戦利品”と見てしまうかもしれないということがある。

遊びは大切である。たとえ引張りっこの遊びでさえも、それを通して学んだり、犬の行動に影響を与えたり、犬と飼い主の絆の形成にも役立つ。犬と引張りっこで遊ぶことは少しも悪くない、そしてたまに勝たせてあげることもである。ただし“放しなさい”というコマンドをちゃんと聞くようなエチケットを犬に教えた上でであるが。

「犬に“伏せ”の姿勢をとらせる」
狼は身体の位置が低いほど、より従属的であるから、犬が我々よりも下位にあることを見せ付けるために“伏せ”の体勢をとらせなければならないということらしい。しかし実際に我々がしていることを見てみると、犬に伏せをしなさいと言う。犬がそのようにする。すると自分の言ったとおりにしたことについて、犬に“よくできたね”と声をかけ、そして自分自身に対してはなんといいトレーナーなんだ!と自己満足しているのである。服従的になれということは、“座れ”のように、犬に訓練できるものではない。服従的な行動とは生まれ持ったもので、自然な行動である。それは支配と服従の儀式的行動の一部なのだ。

さて、これらは我々が犬に押し付けるようにと言われてきたパックルールのほんの一部である。それらのルールは狼の行動に基づいているとは言え、狼にさえも適用しないものなのに、なぜ犬に当てはまるというのか?にもかかわらず我々はこの大荷物を犬の上に乗せてしまっている。犬はおそらく我々人間が何をしているのか、またなぜそんなことをするのかを全く分かっていないことだろう。いったいどうして我々は、我々のベストフレンドを、最悪の敵のように扱うのか?飼い主よりも先に食べるから、ドアを先に出るから、すわり心地よい家具の上に乗るのが好きだから、引張りっこで遊ぶから、あるいはリードを夢中で引っ張るから、などという理由で犬が飼い主を支配しようと企んでいると、どうして考えるのか?犬は真っ正直で、今のこの場を生きているのだ。それでも時として、犬が吠えたり、唸ったり、歯をカチンと鳴らしたり、飛び掛ったり、軽く噛んだり、噛み付いたりするほとんどの場合は明らかに、その犬が支配的であるというよりは、そのように育てられてしまったために横暴な飼い主に対し、単に恐れを抱いているだけなのである。

犬と人間が一緒に家の中で暮らす場合、犬は人間が決めた様々な境界線を守らねばならない。更に犬と人間との関係はそれぞれ異なるため、それぞれの飼い主がそれぞれの犬のためにその家庭ごとの境界線というものを決めなければならない。それぞれの飼い主が犬をどこに寝かせるかを決める必要がある。ベッドの上、ベッドの中、寝室の床の上、一階、居間のソファーの上、台所の床の上の犬用のベッドで、というように。それぞれの飼い主が好きなように自分の犬に関する決まりを作るのだ。飼い主が犬にどこで寝ればよいかをちゃんと指示することができ、あるいはベッドから下りなさいと躾けることができれば、何の問題もない。飼い主が決めた場所なら、犬はどこで寝てもかまわない。すべては支配ではなく、トレーニングにかかっているのだ。

我々はAlphaでも、支配的でも、パックリーダーでもなくてかまわない。むしろ我々がならなくてはならないのは、人間と仲良く暮らせるように犬を導き、ポジティブでやる気を起こさせるような方法を用いて犬を社会化し、トレーニングしながら犬の行動に影響を与えることのできる、責任ある飼い主なのだ。そうなるためには人間もまた、我々のコンパニオンである犬をより理解するために犬の行動を学ぶことなど、犬に負うところもある。このような“ルール”を私達人間がきちんと守れば、犬に我々の家族の支配権を乗っ取られるなどという恐れを抱くはずはないのである。(2007/12/23)(Barry Eaton)



Barry Eaton氏は英国ドッグ・トレーナー、1988年7月14日、知人のブリーダーから耳の聞こえないLadyというパピーを引き取り、トレーニングを始めた。試行錯誤の末、ハンドシグナルや顔の表情、ジェスチャーを使ってのトレーニングに成功する。耳の聞こえない犬達が生き延びられるよう、Hear, Hear という聴覚障害をもった犬用のトレーニングガイドを出版する。
また犬と人間の関係における”犬の支配”について、Dog Dominance: Fact or Fiction?という著書もあり、この本はDr.Ian DunbarやJean Donaldsonからも高い評価を受けている。
ある雑誌に掲載した原稿を翻訳、LWDに掲載の許可を得ています。

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翻訳者:MaxHolly&Noahのママ

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