小林信美の英国情報 (16)それでもロンドンが愛犬家天国でない理由 パート2
それでもロンドンが愛犬家天国でない理由 パート2
犬の糞の処理と住環境法
清潔好きの日本の愛犬家にとって犬の糞の処理は常識と言えるが、自由主義と個人主義の国、イギリスではそういうわけにはいかない。近所の愛犬家のベンは、この地区に住んで30年以上になるが、犬の糞を「絶対に処理しない派」の一人である。「子供の頃、公園の砂場に乾燥して白くなった犬の糞あったの覚えてない?あの頃は、犬の糞なんか誰も気にしてなかったのに、何で今、それが問題になるんだ?僕は絶対に糞の処理はしないよ。あたりまえだろう?(注1)」とは、いかにもイギリス人らしい(?)議論である。
確かに、犬の糞の処理はつい最近まで個人の裁量にまかされていたように思われる。しかし、良識のある飼い主は、たいてい赤ちゃんのおしめ処理用のビニール袋を持ち歩き、誰に指示されるまでもなく、以前から糞の処理をきちんとしてきている。もちろん、広い公園で犬をリードから放して運動させていると、草むらなど飼い主から見えない所で糞をして気がつかないことも頻繁にあるし、森の中で枯れ葉の上に糞をした場合、カモフラージュ効果で近くにいても糞のありかがわからないこともよくある。そういうわけで、犬の糞の処理を100%実施させることは、ほぼ不可能に近いことであるとは言える。
しかし、住環境保全法 (Clean Neighbourhoods and Environment Act 2005)
が2005年から導入されたため(注2)、飼い主が犬の糞の処理を怠った場合、地方自治体が法執行機関を通さず、直接、刑罰を課すことが可能になったことでその事情は変わった。そういうわけで、犬の糞の処理を怠るという行為は罰が課される「社会問題」として一般的に認識されるようになったというわけである。これについてもう少し詳しく説明すると、犯罪の取締といえば、法執行機関である警察が行うというのが一般的な認識ではある。しかし、犬の糞の処理は警察が関与するまでのことはないため、これらの軽犯罪ともいえる問題を処理する権利が自治体に与えられたとみてよいだろう。
それでは、行政側は犬の糞の処理を怠るとどのような問題が起こるとみているのだろうか。筆者の居住する北ロンドンのある自治体のウェブサイトによると、犬の糞にみられる寄生虫は子供に視覚障害を引き起こすことがあるとしている。子供のいない私にとっては「それはまた、大げさな〜」と思われる内容であるが、子供のいる親にとっては十分、恐怖心をあおられるものであろう( 注3)。また、ロンドン近郊の別の自治体もほぼ同様の内容の警告を住民にうながしており、犬の糞の処理は確実に社会問題化していることがわかる(注4)。
しかし、住環境保全法導入以前から犬の糞の処理をきちんと行っている良識ある愛犬家にとって、実は、事態はあまり変わっていないのである。同法導入後、唯一、変わったことと言えば、近所の犬の散歩コースの森の入口に『犬の糞の処理を怠った者には1000ポンドの罰金』という看板が掲げられたことであろうか。しかし、この地区の自治体に限って言えば、同法の取締はあまり厳重に行われていない。筆者の経験では、2年ほど前に一度、自治体の職員一人と警察官一人が数カ所ある森の入口の一カ所で待ち受けており、犬の散歩に来る人たちに犬の糞の処理用のビニール袋を持参しているかどうかを確認した後、糞の処理を今後も怠らないようにうながしていたことがあるのみである。
そういう事情から、近所の森の入口付近では、今でも森の中に入るまで排泄を我慢できなかったらしい犬の糞をよく見かける。これは、施行不可能な法を制定する政治家の責任であると見ることもできるが、実はこの法制定の裏には、民事問題が訴訟沙汰になることが頻繁化しているというトレンドがからんでいるといわれる(注5)。この「訴訟のトレンド」が一般的になった時期は定かではないが、2000年頃までには政府や地方自治体の公共事業の落ち度から引き起こされた被害に関し市民が訴訟を起こすケースが増加していることが頻繁に報道されるようになった。このトレンドが一般化した原因の一つには、いわゆる「ノー・ウィン・ノー・フィー(No win no fee)という、原告側が勝訴した場合にその費用は被告側に課されるような制度が一般化したことが大きく影響しているといわれている。これにより、補償金目当ての訴訟のケースが爆発的に増えたと言われている(注6)。
上記のことから、実は近所の愛犬家ベンが指摘した通り、犬の糞の処理問題は、以前より悪化したわけではないことがわかる。しかし、上記の法律の制定により、犬の糞が危険であることがクローズアップされたことで、ロンドンが愛犬家にとって以前より住みにくくなったことは間違いない(これは、もちろん、イギリス国内全体の問題ではあるが)。中には、犬の糞の処理や犬による人身事故に関し必要以上に神経質になる自治体もあり、行政地区内の公園から犬を閉め出そうとする動きも出て来たほどである(注7)。
目下のところ、我が家の近くの犬の散歩コースは愛犬家天国の様相を変えていない。しかし、これからロンドン市内の人口が増え続けて行けば、人間優先の政策により愛犬が犠牲にされることは十分考えられるのである。
参考資料:
(注1)ちなみにベンは「Do bears #OOPS# in the woods? (当然、あたりまえだろうの意)というユーモアのある表現で会話を締めくくった。
(注2) http://www.opsi.gov.uk/acts/acts2005/ukpga_20050016_en_8
(注3)http://www.homesforharingey.org/almo/our_community/getting_tough_on_bad_behaviour.htm
(注4) (http://www.southend.gov.uk/content.asp?content=5821)
(注5)
BBC News 2005年11月3日付の記事 ‘Compensation fearsgripping UK’
(http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/4401820.stm)
(注6)
BBC News 2000年11月15日付の記事‘Compensation culture: Who’s to blame?’
(http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/1024540.stm)
(注7) http://www.thecnj.co.uk/camden/022207/news022207_04.html