安楽死について考える

安楽死について考える

愛犬の安楽死について、いくつかの体験記をお読みいただいて、読まれた皆さんが、もしもの時のために「安楽死について」考える材料としていただければと思います。


その1 <15才で逝ったシュガー>
実家にいる時は私が面倒を見ていた兄の家族のヨークシャーテリアです。
我が家の猫たちを、病院にホテルとしてある時、預けました。軽井沢にテニスに行った帰りに、その病院にピックアップしに寄ったの です。
窓口で、「タヌ・ミソを迎えに来ました」と言って、何気なく受付にある走り書きのメモを見ました。私の旧姓が書いてあるのです。
珍しい名前だったので、ひょっとしてシュガーが入院して居るのですか? と先生に聞きました。
15才のヨーキーが瀕死の状態でした。両目は白内障で明るさだけしかわからない状況、歯はまったくなし、足はよぼよぼでした。2階が住まいでしたが、普段、絶対に階段の所まで出てこないのにその日は、どういう訳かよたよたと出ていったのでしょう。階段から落ちました。

瀕死の状況で病院につれていかれました。

様態をみると箱の中でやっと息をしている状況でした。頭を打っており回復の見込みはないだろうという獣医さんの話でした。苦しそうな状態で生きながらえているのは不憫に思いました。しばらく、シュガーの瀕死の状況を見ていて、もうおそらくダメだろうなと思いました。私のシュガーと呼ぶ声にも反応しません。
実家の母は、シュガーの転落事故の直後、私に連絡を取ろうと留守の家に何度も電話をしましたが、私達が旅行していることを母には告げていなかったのです。いかんせんまだ携帯電話のない時でした。

実家にそのまま行き、家族とシュガーの現状について話し合い、私はシュガーの安楽死をお願いしたらどうかと提案しました。獣医さんからは、「もう少し様子を見ましょう」と言われたのです。

その1時間後、亡くなったという連絡が入りました。
家族で最後に会えたのは結局私でした。シュガーは私を待っていたのでしょうか? シュガーは、私が来るのを知っていたのでしょうか….。

安楽死を一時だけでも選択したことが、私の心の中につらいものを残しました。私の甥・姪達は、シュガーと共に育ちました。特に姪はシュガーと同い年です。そしてシュガーは15歳でなくなりました。
私は安楽死を願ったということから罪の意識があります。願わなければ良かった! しかし何日も息も絶え絶えの苦しさを愛犬にさせたくないという思いがあったことは確かです。(2000/05/27)(LIVING WITH DOGS)

その2 <農薬を舐めて逝ったウィリー>
ワシの犬の名前は記号である。PY3500RX。それは犬を道具として認識したいというワシの気持ちの現れなのだ。数年前、PY3500RXの先代の犬、推力(ウィリー=もちろん純粋な雑種)は農薬を舐めて死んだ。腎臓が萎縮してしまい、毎日病院で血液の老廃物を中和する注射(詳しくは忘れた)を打ちにいっていた。その金額が1万円。

1週間ほど病院に毎日通っていると、同じく毎日黒ラブを連れてくる若いにーちゃんに気がついた。そのにーちゃんが連れてくるラブも、同じく農薬だか除草剤だかを舐めて腎不全になり同じ注射を打っていた。この若いにーちゃんは独身で、犬と二人暮らし、犬の看病のため会社も休み毎日大枚を握りしめて注射代金を払いに来る。そんな生活が1ヶ月も続いていると涙をこらえながら語った。
仕事はすでにクビだろうと言っていた。もう金も底をついたといっていた。でも安楽死はできないと言っていた。どうしても出来ないとついにこらえきれずに泣いた。

人ごとではなかった。ワシは雇われの身でもなく自宅で仕事をできるが、それでも仕事はストップし、金はどんどん無くなっていく。そして2週間目、ケイレンを起こした犬を病院に担ぎこみワシは医者に言った。もう殺してくれと。

悪人のふりをしていった。「俺は犬なんて道具にしか見てないんだよ! 俺はどこのどいつよりも、犬なんてカワイク思ってないんだよ! あー、いい迷惑だ! 犬なんて犬畜生だ!」そんなことを心の中で何度も自分に言い聞かせながら、平静な顔をつくって医者に殺してくれとお願い した。
弛緩剤を打つ必要もなく、犬は自ら死んだ。死ぬ瞬間、ワシは犬に飛びついた。ワシの腕の中で死んで欲しかったからだ。勝手な思いである。ワシはいつでも勝手だった。

犬が飼えるような環境ではないのに(当時は県営住宅に住んでいた)ノラ犬をさらってきて推力と名前をつけ、野生の自由を奪って、生き物にとって必要なリスクを奪って育てた。
推力は、時速45Kmで走る足を持っていたが、ワシに飼われてその足の能力はなんの役ももたないものになった。助走もなく瞬時にジャンプする筋肉はボールをキャッチすることにしか使われず、遠くの物音を聞く耳はワシのバイクの音を聞き分けることにしか使われなかった。

人の一生がその長さで幸せを測れないとしたら、推力の一生はなにを持って幸せを測れるだろう? 短くても野良犬であるほうが良かったのではないか? ワシは人的な考えで野良犬を飼い犬にし、農薬を舐めさせ殺したのだ。そして人的な感傷に捕らわれている。

その選択は今持って正しかったかわからない。

病気になった推力は目が見えなくなった恐怖から常にワシの匂いを追いかけた。その様に涙するワシを死にかけているのに顔をなめて気遣った。
犬は自ら死にに行くとは決していわなかった。常に生きる選択肢を選んだ。それがどんなに確立が少なくてもだ。どんなに悪い環境でもそれに順応する生き物の本質的な選択。それは生きるという選択肢だ。それゆえに生物は生まれてくる。

しかし、ワシは安楽死(安楽なんてイイワケだが・・・)を選ぼうとした。金が底をつき犬と共倒れは避けねばならないと思ったのだ。犬の明日よりも自分の未来を選んだ。ヒトとしては常識的な選択だろう。また、これは経済や商売の原則でもあろう。

ワシは決して犬好きではない。自分の犬が好きなのであり、他の犬も好きな犬や嫌いな犬もいる。まったくもって勝手な輩であり、道化である。
が、自分の犬と他の犬のことを考えるとそこに世界の有り様が見えてくる。

だから、ワシは犬に型番をつける。そして泣きながら犬を飼う。自分の犬の飼い方は間違いであると常に認識しながら飼う。(2000/05/27)(兵庫県・西鶴さん)

その3 <安楽死について語る>
安楽死を選択することは飼い主さんにとって永遠のテーマでしょう。犬は、死を自分の出来事のようには思いません。例えば、重病におかされ世の中を悲嘆して生きてる価値なんてないとは考えないのです。明日がないなんて思わないんですね。
犬はどんな姿であろうが昔のように飼い主との楽しい毎日がそのまま続くとずっと思っています。夢の中では、若い頃に走り回った河原を思い描き宙を足で蹴っているのです。
そして、飼い主は、苦しそう、痛そう、可哀想と人に対してと同じ感覚でみています。犬は飼い主が悲しみ苦しんでいるのを慰めようとさえします。死を覚悟する事など、犬の思考回路にはないことだけは真実です。

楽にしてあげようと言うのも愛情です。
では飼い主はどうしたら良いのでしょうか・・・・・。答えはありません。もしもその時が来たら….。

●「犬と分かちあう人生」(アーク代表エリザベス・オリバー氏著)から

「ある獣医さんが、・・・もし犬が階段をのぼれなくなったら安楽死させてあげようと、決めていて…実際にそうなった時、彼は犬を一階に移しました。そして、もしこの犬が失禁してしまうような時が来たら、安楽死させようと決め…。 さらに食べ物に興味がなくなったり、食べられなくなったら…。 でもその犬は死ぬまでちゃんと食べていました。 セミへの私の思いもこれと同じでした。もしセミが苦しむようになったら、躊躇しないで決定しよう、と。しかしセミはおだやかに、老兵のごとく消え去りました。」(P127)
(オリバーさんは、場合によっては動物の安楽死を肯定しています。ここで、セミとはある駅前でオリバーさんに拾われた紀州と秋田とのMix犬のことです)

●Mさん(バンクーバー在住)

重い話題ですが、欧米では確かに「飼い主の判断による安楽死」は、「一般化」していると思います。病気で、痛みがひどい場合は、ただ生き延びさせるのが幸せか? それともRainbow Bridgeへ送り出してあげることの方が良いのか?
この判断は、「飼い主がして、最期は飼い主が見取るもの」という意識が強いと思います。「捨てる」のと「飼い主の判断で安楽死」か?

●Yさん(加古川在住)

凶暴な性格が直らないとしたら、それをレスキューに出すか? 安楽死か? でも、実際はそうじゃない人がなんと多いことか!! 実際にギリギリの選択をした人なら、保険所に”捨てる”のではなく、自分の腕の中で「安楽死」させてあげたいと思うのではないでしょうか? 私自身はそう思います。
決して「安楽死推進!!」ではありませんが、飼い主の最後の判断が保健所では、あまりにもお粗末でしょう?

●Mさん(東京在住)

ある脳腫瘍のG.R.と暮らしている方に、私は安楽死も考慮するときがあるかも知れないことをアドバイスしたことがあります。この犬は、おとなしい家庭犬でした。最初はてんかんではと相談されました。CTスキャンの結果脳腫瘍であることが判明したのです。
脳腫瘍の犬の最後を友人から聞いていた私は、そのご家族に、犬の病状の変化に対応した介護が必要なこと、そして、意識がなくなり凶暴になる場合もある。その時は考慮する必要があるかも知れないと。しかし、その犬は、家族全員に見守られながら、最後の雄叫びをあげて亡くなりました。安楽死を選択せず逝ったのです。

鶴さん vs. LIVING-WITH-DOGS

そもそも「世の中に安楽死なんか無い」で話は落ち着きませんか? 痛いとか痛くないとかの問題ではなくて、結局殺してるんでしょう。それだけの話だと思いますが。

そうです。結局は誰が手を掛けようが、人が犬の命を最終的に奪っているのですね。

僕は以前、飼っていた犬が農薬にやられた時、医者に注射で殺してくれと依頼しましたが、なにがどうあれ僕が殺したと認識してます。(注射を打つ前に死んでしまったけど)それだけのことですよね。

私も鶴さんと同様のヨーキーの安楽死を願った経験をしていますので、いつまでも私が殺したという思いがあります。結局は注射を打つ前に亡くなりましたが・・・・。

安楽死についての基準なんてありはしないですし、そこには正義なんてものも無いんじゃないですか。安楽死っていう言葉じたい、罪の意識からの逃避でしょ。

私は安楽死を願ったということから罪の意識があります。願わなければ良かった! 犬の生きようとする力を殺いでしまったような思いが今でもあります。

あくまで、殺してるんですよ。それがどんな状況であれその事実に変りないでしょう。ほんでもって、その罪に心痛めればいいんですよ。僕は医者に殺してくれって頼みましたが、もし医者がその場にいなかったら、はたして自らの手で殺していたでしょうかね。

う〜!!! 絶対に出来ないでしょう。

生きていることは、自らかかえるリスクなんですよ。「生きててごめんなさい」なんですよ。ここにヒト独自の言葉のイイワケがはいるから犬とすら暮らせなくなるエライ御人になってしまうんです。

そうかもしれません。犬は決して「生きててごめんなさい」とは思っていないです。人が勝手にこの子は「生きててごめんなさい」と思っていると人が考えているだけですね。

さらに言うなれば、犬をヒトの社会、それも都会で飼うことすら本来 「罪」だと思いますよ。みなさんそれを認識した上であえて犬を飼ってるんでしょう? いったい誰がどれだけ偉いんでしょうか?

犬と人が一緒に暮らし始めて、飼い主の愛情のかけ方の量、生活スタイル、によって様々な意見が出て当然と思います。人の安楽死についても永遠のテーマでしょうが、愛犬の安楽死も永遠のテーマでしょうね。
( 2000/05/27)

安楽死の実際 – 飼い主はどうすべきか? (「ペットの死その時あなたは」鷲巣月美著より抜粋)

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