ある老犬との暮らし [5]自然体
ペットの老衰について考える時、「自然体」と言う言葉の対極に「安楽死」という考え方があるようですね。先日読んだ「犬と分かちあう人生」(アーク代表エリザベス・オリバー著)にこんなくだりがありました。
「ある獣医さんが、・・・もし犬が階段をのぼれなくなったら安楽死させてあげようと、決めていて…実際にそうなった時、彼は犬を一階に移しました。そして、もしこの犬が失禁してしまうような時が来たら、安楽死させようと決め…。 さらに食べ物に興味がなくなったり、食べられなくなったら…。 でもその犬は死ぬまでちゃんと食べていました。 セミへの私の思いもこれと同じでした。もしセミが苦しむようになったら、躊躇しないで決定しよう、と。 しかしセミはおだ やかに、老兵のごとく消え去りました。」(P127)
(ちなみに著者は、場合によっては動物の安楽死を肯定しています。ここで、セミとはある駅前でオリバーさんに拾われた紀州と秋田とのMix犬のことです)
これは私の感慨ですが、この書(晶文社\\1800+、アークのHPにて注文出来ます)に流れる著者の考えとして、動物に対する自然体の態度、それも西欧的合理性に裏打ちされた「自然の摂理を受容する態度/生き方」が感じられます。それは多分彼女だけのものではなく、英国(又は西欧)人全般に共通で、どうも日本人のとは異なるものなのかな、と思いました。
そして私には、なぜ日本に日本犬が出来たのか、なぜその国にその国の犬が出来るのか分からせてくれるような(それについてはどこにも書いてありませんが)、見事な比較文化論を読む思いがしました。
名古屋も随分と暖かくなって、タロの散歩の「行きはヨイヨイ」には変化はありませんが、「帰りはヨロヨロ」には、それに「ハアハア」が加わるようになりました。この週末は、ようよう雪の消えた岐阜の荘川に来て、タロはご機嫌です。
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