私的メーテルリンク解釈

私的メーテルリンク解釈

「人間はこの運命の星でただ一人、ひたすら孤独な存在である。そして私たちを取り囲む生き物の中で、犬だけが人間と手を携えた」

これはノーベル賞文学者、モーリス・メーテルリンクの言葉、だそうです。「・・だそうです」というのは、私がこの言葉の出典を知らないからです。私は、ある本の中に引用された言葉としてこれに出会いました。ですから、メーテルリンクがいつ、どのようにこの言葉を用いたのか知りません。が、この短い、前後の係り受けもなく独立した形でポンと置かれたフレーズは、それだけで強く訴えかけるものがありました。それはなぜなのか、極めて私的に自分勝手な解釈を試みました。

(1)犬と人

私は無類の犬好きです。子供の頃からずっとそうでした。むろん、子供の頃は今のような関わり方はしていませんでした。犬について特別な知識も経験もなかった、にもかかわらず、とにかく犬という存在に無条件に惹きつけられました。当時、自分の興味について分析する力も表現する力もなかった私は、「どうしてそんなに犬が好きなのか?」という問いに対して、「好きだから」と、答えにもならない一言で片付けていました。今はもう少しましなことが言えるようになったと思いますが、当時も今も、私が犬に対して感じていることは、たぶん同じなのです。

私が特に惹きつけられるのは、彼らの「目」です。切なく、哀しく、何事かを訴えかけてくるような目、これに弱いのです。(それが人間の場合でも、私はこういう目つきにはとことん弱いのだ・・・。)
「お腹が空いているの」「寒いの」「寂しいの」「助けて」・・・そういうメッセージを、彼らのまん丸い、澄んだ目の中に見てしまって、無謀な救済を試みたことが何度あることか。(多くの場合は、責任を持てない子供だったが故に失敗に終わって、後味の悪い思いばかりが残りましたが・・・)その時、私の頭には、時代劇のようなお決まりの勧善懲悪や、道徳の教科書のような心温まる感動的なストーリーが勝手に組み立てられていました。それに従ってひとりよがりの茶番劇が繰り広げられたわけです。

それはさておき、今でも、私の目に映る彼らの「目」は同じなのですが、解釈の仕方は当時とずいぶん変わりました。それは、私が犬について幾ばくかの知識を得たおかげです。犬の行動、とりわけ学習過程や思考・認識の仕方を知ることは、私にはカルチャーショックとも言える影響を与えました。

<カルチャーショック その1: 幻のラッシー>

むろん犬にも感情はあります。しかし、それは喜び、怒り、恐れ、興奮などごく基本的な生理的感覚に直結するもので、犬はそこに人間のような善悪の観念など差し挟みはしません。判断基準も、自分にとってプラスかマイナスか、だたそれだけです。
もし、犬が涙にくれる私の側に寄り添っていてくれるとしたら、それは私の感情を理解して慰めてくれているのではなく、私の感情がいつもと違う不安定な状態にあることを察知して、その不安から近くにいるに過ぎないと解釈する方が適当なようです。(実際犬と暮らしてみると、そういうドライな受け取り方の方がしっくりくる犬の行動を多々目にします)群内の安定は群の利益、ひいては自分の利益でもあるからです。飼い主のピンチを察知して駆けつけ、悲しい時には慰め、うれしいときには一緒に喜び、落ち込んでいると励ましてくれる、あの憧れの名犬ラッシーもパトラッシュもどうやら人間の幻想の産物だったようです。

<カルチャーショック その2: 犬は星飛雄馬にはなれない>

犬にとって大切なのは今であり、過去を振り返ったり、未来を夢見たりはしません。犬が過去に恐ろしい(or自分にとってよくない結果を招く)経験をすると、犬はそのことを記憶します。
しかし、人間と違って、そのことについてくよくよ思い悩んだりはしません。犬が恐れるのは、同じシチュエーションに置かれた場合、またそれが再現されるのではないかということです。その恐れはあくまで現在の恐れであって、過去を恐れているのではありません。
また、犬は現在の出来事を未来に繋げて考えることもしません。トレーニングがうまくいかなかったからといって、「帰ってから叱られるだろうな」などとは考えないし、将来の栄光のために、今は辛い辛い練習にも耐えろなどという理屈は犬には通用しません。つまり、犬の世界には星飛雄馬は存在しないということ。ドッグスポーツやトレーニングででいい結果を望むなら、普段から心身共に最高の状態を作り出し、それをさらに高めていくのがベストのようです。

<カルチャーショック その3: スヌーピーは哲学しない?>

犬は抽象的な概念を理解しませんから、「部屋の中でおしっこをしてはいけません」ということは犬には教えられません。「部屋の中」、「いけない」といった概念が理解できないのです。代わりに、室内トイレもしくは屋外で、「トイレの場所はここ!」と具体的な概念に置き換えて教えます。また、犬にお行儀よくしなさいというのも無理なことです。
例えば、「お行儀よく」というのは飼い主の足下でフセをしていることだと、具体的な行動として教える必要があります。トレーニングが進むと、指示しなくてもフセすべき場所では犬が勝手にフセをしてくれるようになりますが、これは犬が状況から「ここはフセをする場面」と判断しているだけで、決して「お行儀よく」という抽象概念を理解しているわけではないのです。ということは、犬は哲学とは無縁の存在です。犬の顔をじっと見ていると、いかにも哲学的なことを考えていそうですが、じつは犬は犬なりのことしか考えていないのです。でも、このパラドックスがあったからこそ、スヌーピーはあんなにおもしろかったのかもしれません。

こうした認識を得た結果、私にとって犬たちの目は、切々と心情を訴える「悲劇の主人公の目」から、「クールな観察者の目」となりました。かつて私が犬たちの目の中に見ていた感情と思しきものは、私の中にある感情や先入観の投影だったような気がします。犬の目はもっとニュートラルな性質を持つレンズのようなもので、じつに克明に状況を捉えています。それがあまりに正確で、それによって引き起こされる反応が、驚くほど的確にこちらの動きや心情に対応しているが故に、人間の感情を理解しているのではないかと、今でも時々錯覚を起こしそうになることもあります。それくらい、犬は私たち人間を見ています。

それは犬が群で暮らし、狩りをするハンターであったことに由来しているでしょう。彼らには対象を鋭く観察する力が、生きていくために不可欠だったのです。目だけに限らず、五感の全てを駆使して、彼らは相手を観察し、お互いの距離を測り、コミュニケーションをとります。それこそ、人間には遠く及びもつかない優れた能力です。
それは、彼らが犬であるということに他なりません。彼らの目を「観察者の目」と解釈できるようになったとき、私の中で犬は「犬という生物」として意識されるようになりました。人間とは違う一つの種として彼らを見たとき、言葉を理解しないから、複雑な思考過程を持たないからといって、人間と犬とを上下関係で捉えることはできません。メーテルリンクの言葉に「手を携えた」とあるのは、こういうことではないかと私は思うのです。犬は私たちの社会で共存している。犬たちは私たちの庇護のもとにあるのではなく、お互いに「手を携えて」同じ時間と空間を共有しているのです。

(2)犬は犬である、人は人である

「人間はこの運命の星でただ一人、ひたすら孤独な存在である」
なるほど、そうかもしれません。子供の頃、芥川の「トロッコ」を読んだとき、トロッコが走る線路の向こうに真っ暗な孤独が見えるような気がして恐ろしくなったのを覚えています。人間の孤独は、自分の存在を認識するがゆえ、”科学が発達し、人間をめぐる世界の事象が明らかになるにつれ、神に代表される象徴的なものへ畏怖も薄れ、それと同時に、人間は自分の存在の卑小さを知ることになった”人間の孤独はコペルニクスに始まると主張する心理学者もいるそうです。
人は孤独を感じる、そして、孤独を埋めたくてペットを求める。全ての人がこのような動機でペットを飼うわけではないでしょうが、一つの現象としてごく自然なことです。確かに、一人暮らしの部屋に帰った時、犬(ペット)が待っていてくれて、手を伸ばせば温かく柔らかい体に触れることができ、話しかけると何かしら応えてくれれば、ホッと心が慰められるでしょう。

しかし、時々首を傾げたくなるような犬と飼い主の話を見聞きすることもあります。犬を溺愛するあまり、犬が喜ぶものばかり無計画に食べさせたあげく、超肥満体の犬が出来上がり、心臓疾患や膝の故障を抱えてしまう・・・。人間との生活で、犬としての自分の存在を見失って、精神疾患に陥ってしまった犬・・・。人間の側でも、その犬を失ったときにひどいペットロスに陥る危険性があります。犬への依存度が高い人ほど、その可能性は大きいはずです。いかに人間に身近な存在になったからといって、やはり犬は犬、人間ではありません。その犬を擬人化し、あたかも人間であるかのように扱い、精神的にも頼りすぎてしまう。それは不可能であると同時に、犬にもストレスがかかります。最近犬にも増えつつある癌などの病気に、ストレスが影響していることはまず間違いないでしょう。

ところで、この言葉に出会うまで、私はメーテルリンクという人を「’青い鳥’の作者かしら?」くらいにしか知りませんでした。これをきっかけに調べてみると、アリやハチの優れた観察記録を残しており、生物に関する造詣が深い人だったということを知りました。メーテルリンクが生物の観点から「孤独」という言葉を使ったとすると、同じ言葉が少し違った趣で響いてきます。昨今、メル友と称して、薄っぺらな繋がりをやたらめったら数ばかり多く求めるという風潮がありますが、そもそも孤独とは、そうまでして埋めなければならない悪いこと、恥ずかしいこと、恐れるべきことなのでしょうか? メーテルリンクはそう思っていないという気がします。

人間は一人で生まれ、一人で死にます。それは地球上のどの動物でも、例外なく同じです。家族や仲間に囲まれて過ごしているけれども、たとえ夫婦、親子といえども、別々の個体であり、意識まで共有することはできません。全ての生物はそういうふうに生まれついています。すなわち、元来孤独なものなのだ、と思うのです。ただ、幸か不幸か、人間だけが自分の孤独を認識する、孤独を孤独と感じてしまう。しかし、これがあるべき姿ならば、それを無理やり否定することはないと思うのです。

犬たちの生を享受する姿は、私に見失いがちな本来の姿を思い出させてくれます。広い草地を全身の筋肉をフルに駆使して疾走する生き生きとした姿、ピンと尻尾をあげ目を輝かせて歩く姿・・・眠る、食べる、そういった日常の生命維持のための行動にさえ、犬たちは持てるエネルギーを全て傾けているように見えます。彼らは生きることの意義など問いません。なぜなら、生きていること自体が、彼らにとって意義そのものだからでしょう。たとえ人間といえども、それは同じはずです。ただ、私たちは人間同士の社会の中で、いろいろな情報にふれ、他者と関わり、多様な価値観が複雑に交錯する世界で生きています。時として、それに振り回されてしまうこともあります。けれども、私たちの根幹にあるものは生命体であることであり、犬たちと何ら変わりがありません。人間の価値観は、それを越えるものではなく、その上に積み重ねられていくべきものなのだと、私は犬たちの姿を見るたびに思います。

犬は犬であり、人は人である。お互いをそれぞれ独立した種であると認めて、そして「手を携える」。これが私たちの出発点である。メーテルリンクの意図がどうだったかは不明ですが、彼の言葉は、私にはそのように響きました。

(2001/12/13)(茨城県、E.Mさん、E.Mさんが参加している会の会報から転載)

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