MAXの思い出
MAXの思い出
[心に残る犬との思い出]
心に残る忘れられない犬との思い出の第一弾のご投稿です。Tさんは、この原稿を涙を拭いながら書いて下さったそうです。(LIVING WITH DOGS)
< アメリカに転勤していた父が帰国前に犬を連れて帰る事にし、近所のペットショップを何軒か廻って予防接種の打てる犬を探しました。ようするに売れ残りの犬でした。
ペットショップでのマックスは小さなガラス・ケースに入れられとても窮屈そうにしていました。もう子犬の可愛らしい時期をとっくに過ぎていて、オドオド、ビクビクした、哀れそうな犬でした。隣に雌犬のシェットランドシープドッグがいたのですが、私はこのゴールデンでなければとこの犬に決めました。
マックスには同腹のシスターがいましたが、その子は先に売れてしまい、不細工?なマックスはいつまでも売れ残っていました。骨格がドンドン大きくなっていくマックスをショップでは、これ以上大きくさせないように、あまりご飯を与えていなかったようです。とてもやせ細っていましたし、体臭も口臭もかなりありました。
ケースから出してあげると、とても喜びお店中を走り回っていました。父が支払いを済ませている間、私は、店内にいた他のお客さんたちに思わず「アメリカで一番人気のあるオス犬の名前は何ですか?」と聞いたら、全員がすぐに「Max!」と答えてくれました。大きな堂々とした犬になって欲しかったし、日本人の私としても呼びやすい名前だったのでその場でこの子の名前はマックスと決まりました。
自宅に連れて帰り、まずシャンプーをしましたが初めてのことで大変でした。夜中は独りで寝れずに寂しがって泣くことも多かったです。しばらくして、大型犬にはやはりトレーニングをした方が良いと家族で相談し、アメリカにいる間に1ヶ月ほど学校に入れ、それから日本に連れて帰ってきました。
飛行機の乗り換えがあり、合計20時間以上、クレートの中に入れられての日本までの移動でしたが、マックスはクレートを汚していませんでした。成田では動物検疫の為2週間係留されます、そのストレスからか東京の自宅についてから元気がなく血便となってしまいました。しかし獣医さんの薬の効果があって、それからは元気に育っていきました。
苦労した事と言えば、小さい時に食事の量を抑えられていたので、十分にご飯を食べないことでした。トッピングをしたり、フードを変えたり、これまでの栄養不足を解消させるためにいろいろと試しました。また、パピーの時のケース内での暮らしの反動か、人に対して甘えん坊さんになっていて独りでお留守番が苦手になっていました。そこで遊び相手としてキャバリアの雄を飼う事にしました。キャバリアのサンディとマックスの二匹はとても仲良くなり、いつもベッタリとくっついていました。マックスもサンディの良いお兄ちゃんになってくれたようです。
ある日、マックスとサンディとお散歩中、飼い主を振り切って走りよってきたシベリアンハスキーが突然サンディに襲いかかろうとしました。マックスは、そこに割って入り、代わりに噛まれてしまいました。私は驚きのあまり、そこに立ち尽くすことしかできませんでした。マックスは、それからも、サンディが叱られると、「もぉしからないであげて!」と言っているようでした。弟思いのやさしい子に育っていったようです。親ばかと言うよりは姉ばかですけど、どんな所に行っても誰からも良い子ねと言われるように、しつけも怠らずに続けていましたから、本当にいい子に育ってくれたと思います。犬の集まる公園で犬同士がじゃれ合いますが、他の犬もマックスにだけには、一目置いているようでした。マックスは、周りを気遣う犬で、成犬になってもいつも遠慮がちな犬でした。お客さんが来るとスリッパをくわえて出す、ティッシュと言われるとティッシュの箱をくわえて持ってくる、10種類以上のアイテムを見分けて持って来てくれました。母が私宛の郵便物をくわえさせると2階の私の部屋まで持ってきて私に差し出してもくれました。
お散歩コースではマックスはたまにリードを外して歩かせていましたが、決して私から離れて歩くとはありませんでした。冬のお散歩中のうんちの始末は、どうしても手袋を外して処理をします、その手袋をよく落としていました。マックスは必ず、拾って私に差し出してくれました。きっとお仕事と思っていたのでしょう。マックスの成長と共に、私との絆がどんどん強くなっていったように思います。マックスは平和主義と言える犬でした。私は仕事のことやこれからの将来のことなどを考えると落ち込んで、いらいらしたりすることも多かったのですが、マックスのやさしい点を見習わなくてはといつも反省させられていました。私が気分が悪く黙ってソファーに座っていると、マックスはそっと寄ってきて私の顔をぺろぺろとなめて慰めてくれました。徐々に私はマックスに支えられているんだと思いました。マックスは犬というよりも、誰よりも私の気持ちを判ってくれるパートナーになっていたのかも知れません。
私は、仕事に夢中で、なかなか結婚話も決めずのんびりしていましたが、仕事よりも結婚を選ぼうと婚約をしました。結婚をすると言うことは、住み慣れた家から離れることです。そしてマックスと別れなければならない、それだけがとっても気になっていました。でもマックスは両親にとっても最愛のパートナー犬でした。4月6日マックスは7歳の誕生日を迎え、私がプレゼントした大好きなぬいぐるみで遊んでいました。翌7日、私が朝食をとっていると、いつもなら絶対にねだったりせず、テーブルの下で大人しく寝そべって待っているのに、その日に限って私の足を爪で引っかいたのです。サンディーはよくそうやって「ちょうだい!」とねだっていたのですが、マックスはした事がなかったので、母に「珍しいね。どうしたんだろう?」と言っていたのです。
その日の午後からマックスの体が急に大きく腫れ上がり、苦しみ出したのです。獣医さんに電話をし、迎えにきてもらいました。一緒の車に乗っていけば良かったのですが、母と私はうちの車で病院にかけつけました。その時既にマックスは麻酔にかけられ、お腹を開いた後でした。獣医さんが出てきて「かなり深刻です。」と言った時、私は自分の耳を疑いました。「この人何言ってるの?さっきまでマックスは元気だったのよ?」と全く信じられませんでした。手術に時間がかかるので一旦帰宅してください、と言われ帰宅しました。でも、スグに家の電話がなりました。「悪い知らせだ!」とすぐに分かりました。獣医から「精一杯やってみたけれど、これ以上手のほどこしようがない。心臓が動いているのが不思議なくらい。安楽死を考えてください。」と言われました。1分、1秒でも長く生きて欲しいのに、マックスの命を絶つなんて絶対に考えられませんでした。マックスは本当に我慢強い子でした。ここまで症状が進んでしまうまでかなり苦痛だったそうです。普通なら転げまわっているそうです。でも、マックスは我慢強かったために、それが私には伝わりづらかったのです。
ペットショップで長い間小さいケースに入れられ、ご飯もろくに与えられず、つらかったマックス。厳しいトレーニングを受け、自宅に戻ったと思ったら飛行機に乗せられ日本へ来て今度は成田で動物検疫。そこで病気をもらい、治ったら、今度はアレルギーとの戦い。夏場は特に苦しみました。体重の1割が減ってしまうほど大変で、毛もかなり抜けました。獣医さんのお勧めもあり、アレルギーの治療を始めました。結果、先生もビックリするほど効果が出て、「今年の夏は初めて快適に過ごせるね。」と言っていた矢先、こんな事になってしまいました。
マックスは今までたくさん我慢してきたので、もうこれ以上痛い思いはさせたくありませんでした。こんなに辛い事はありませんが、他に選択肢はありませんでした。
獣医さんの言うとうり安楽死をお願いしました。次に私が診察室に入っていくと、マックスはすやすやといつものように眠っていました。遺体となったマックスを連れて帰ると、サンディはマックスの体の回りをグルグルと回り、匂いをかいでいましたが、しばらくするとマックスの側から離れそれ以上近づきませんでした。
家の中は、今はいないはずのマックスの声が聞こえるような気がしてしばらくたまりませんでした。それは母も同じでした。サンディーはマックスがいなくなってから変わりました。元気がなくなり、痩せ、ボーッとしている事が多くなりました。マックスは体も大きく、とっても存在感がありましたから、家の中にポッカリと穴があいてしまったようでした。
私の結婚が決まり家族全員が祝福してくれたのですが、そんな幸せなお祝い気分で、マックスのちょっとした体調の変化に気がつかなかったのではないか、あの時「マックスは私に訴えていた」。私がもっと早く気づいて獣医さんに連れて行っていればと、私がマックスを死に追い込んだのではと悔やむばかりです。マックスは私の事を恨んでいるのでは。等と申し訳ないと思うことばかりでした。
今私は、結婚をして新しい犬を迎入れました。でもマックスのことは決して忘れません。
マックスが亡くなってから何度か私の夢に出て来たことがあります。それは必ず決まって私がひどく落ち込んでいる時です。夢の中でマックスは私を慰めてくれ、一緒に散歩し遊ぶ。あんなに辛い目に合わせてしまったのに、それでもマックスは私の事を心配してくれて、今も私を守ってくれているんだと思います。ありがとうマックス。
(2004/10/26)(東京都、Y.Tさん)