ロクシー
アメリカにお住いの方から、愛犬に安楽死を選択するまでのこころの経緯を語って下さいました。
ロクシーとの素晴らしい思い出をまるで宝石箱から一つ一つ取り出すように、涙につまりながら書かれたのでしょう。じっくり読んでみて下さい。オレゴンの爽やかな春の風を感じられることでしょう。 (LIVING WITH DOGS)
1992年9月まだ暑さの残る日、ロクシーが我が家の新しい家族になりました。その年の4月から飼っているマックスの遊び相手として、新聞広告で見つけた雑種で生後数ヶ月のメス犬ロクシーは、使いかけのドッグフードの袋、ドッグシャンプーと一緒に25ドルでもらわれてきたのです。
家に入ると、絨毯の上に蛙のように両足を後ろに開いて寝そべりました。まったく物怖じせずに、とても人懐っこい子犬でした。
あれから11年半が過ぎ、2004年3月22日朝10時半、とうとうロクシーとお別れの時が来ました。春の日差しの中、鳥達のさえずりと柔らかなそよ風に囲まれて、病気との戦いに疲れたロクシーは、家の裏庭のデッキの上で、獣医さんの手により、永眠しました。とても穏やかで眠るように逝ったロクシーの上には浮雲がゆっくりと流れていました。
心にぽっかりと穴が開いたようで、何もする気のなくなってしまったゴードンと私は、思いついてその日の午後、園芸店に行き、香りのよい小さな白い花を手毬のように咲かせている植木を買ってきました。そして、ロクシーがいつも座っていた裏庭の一角に植えました。ロクシーは今は花になり私達を楽しませ、これから先もずっと私達を見守っていてくれると信じています。
一方、天国に行ったロクシーは、きっと私の父を見つけて、私達との楽しかった思い出話を聞かせてくれていることでしょう。私達がいずれそっちに行くまでの短いお別れです。
ありがとう、ロクシー
ロクシーと私達との11年半の思い出を残しておくために、これを書くことにしました。
ロクシーには別名がたくさんありました。そのほとんどは私と咲がつけたもので、ロザ、ロジ、ロコちゃん、ローちゃん、ロロちゃん、ロボなどがそうです。まるで人間の言葉や感情を理解しようとするかのように、じっと目をそらさずに見つめるロクシーには、話し掛けることが多くて、彼女のいない今でも思わず独り言のように何か言ってしまうことがしばしばです。ロクシーは私の言葉にもよく反応しました。“お散歩行こうか?”“ごはんにする?”“骨はどこ?”などの質問をすると、それなりの反応をしました。私が猫やりすの鳴きまねをすると、“どこどこ?”というように興奮して探し回ります。また私が泣くまねをすると、飛んできて手で覆った顔をなめてなぐさめてくれようとしました。今、泣きまねではない本当の私の涙をなめてくれるロクシーは、もううちにいなくなってしまいました。
ロクシーはまた私達人間家族の行動をよく観察し、そのパターンをしっかり覚えていました。たとえば、週末の晴れた日にコーヒーをカップに注ぐと、すぐに立ち上がり喜んでデッキへのドアに向かいます。私達がデッキでゆっくりくつろぐのを期待しているかのように。また私が週日の朝、洗面所でお化粧をしている最中は、足元で伏せをして待っているのですが、蛇口をひねるやいなや立ち上がって、キッチンのコーヒーメーカーのほうにリードします。朝の習慣をちゃんと理解して覚えているのです。キッチンでリサイクルの缶やビンを袋に詰めたり、ごみ箱のごみを集めたりすると、決まって私より一歩先をガレージに向かいます。ロクシーのいない今では、ごみ出しも寂しい仕事になってしまいました。
逆にロクシーのほうから、私達になにかを伝える方法もありました。他のたくさんの犬たちも同様でしょうが、ボール遊びをしたいときには、どこからか大きなボールを探してきて、口いっぱいにそれを咥えながら、私の目をじっと見つめておしりを上げ気味にしっぽを振ります。いい子いい子をして欲しいときは、自分の頭を私の手の下に持ってきて、頭で手を押しあげながら催促します。一旦撫で終わって手を休めると、また頭で“もっと”とせがみます。本当にいい子いい子が大好きないい子でした。最後の数ヶ月はプレネゾン(ステロイドの錠剤で2003年の7月11日以降飲み続けていた)のせいで食欲が旺盛になり、特に夜はおながが空いてたまらなかったと見えて、何度も私のところに来ては、ウォーオーと甘えた声を出しながら、全身で訴えていたものでした。足が弱ってきていたので体重をあまり増やしたくないため、ロクシーのそんな訴えをたまに無視してテーブルで本などを読んでいると、今度はテーブルの向こう側に廻ってどうにかして私の視野に入ろうと必死でした。今になってみると思う存分食べさせてあげればよかったと悔やまれます。その頃はまた素人療法で貧血にはレバーがいいと、毎日鶏のレバーを少しずつあげていたのですが、冷凍しておいたレバーを解凍するために出しておいてそのまま忘れていると、ロクシーは何度も私の所に来て”もう溶けたよ“と盛んに知らせてくれていました。凍ったままでは食べさせてもらえないことは理解していたようです。
これは今だに謎の解けない話なのですが、3年ほど前の独立記念日に当時Honey Baked Hamというハム屋でビリーがアルバイトをしていた関係で、ハムを丸ごと買って、グランマの家でパーティをしました。大きなハムだったのでまだ半分ぐらいは残っていたと思います。そのハムがユティリティールームのカウンターの上に置いてあり、お行儀がよくてグランマのご自慢のゴールデンレトリーバーのリリーと、ロクシーがその部屋にいました。いつも何かしでかすジャーマン・ショートヘアー・ポインターのマックスは幸いにもその時庭でりすを追い掛け回していました。しばらくして私がふと部屋に入ると、なんとあの大きなハムが床に落ちているではありませんか。それにずいぶんと食べ散らかしてあるのです。ロクシーは悪いことをしたことをちゃんと分かっていて、上目遣いに私を見て、尻尾を後肢の間にはさんですまなそうな顔をしていました。でもどう考えてもオーストラリアン・ブルーヒーラーとダルメシャンの雑種(と私達は思っています)のロクシーの身長では、カウンターの上のハムには届かないのです。そこで私の推理では、ロクシーがリリーにハムを引きずり下ろさせたということになります。本当にロクシーならやりかねないことですが、結局真相は誰にもわかりません。
ロクシーは、ボールのほかにも、いろんな遊びを発明しました。春になってゴードンと私が庭仕事を始めると、その傍らでロクシーはいつもタンポポを摘んでいました。花を口の中に入れて茎を噛み切り、ぷっと吐き出すのです。こうして庭中のタンポポは無残にも茎と葉っぱだけになってしまいました。またある夏の日、私とロクシーはベッドルームでスクランチー(髪を結わく布でできたゴムのようなもの)で遊んでいました。私がロクシーに向かってポンと投げると、それを口で受け取り、私の前にポトンと落とすゲームを繰り返し繰り返しやっていた時です。マックスが部屋に入ってきました。すると丁度スクランチーを受け取ったところだったロクシーはムガムガムガとそれを飲み込んでしまったのです。この楽しいゲームをマックスに横取りされたくなかったのでしょう。それからというもの私は毎日彼女の糞をチェックする破目になりましたが、5日目に無事に見つけることができ胸をなでおろしました。
ロクシーは骨やローハイドやピッグイヤーが大好物でした。特に骨をあげた時には、わざと私に大きな骨を見せびらかしにやってきて、挑発するかのように“ほら、取ってもいいわよ”というしぐさをするのです。そこで私はまるで犬になったかのように四つんばいになって唸るまねをします。するとロクシーもウーと唸り声をあげながら骨を美味しそうにガリガリやるのです。邪魔されずに食べるより、こうして遊びながら食べるのが好きな変わり者でした。ピッグイヤーは寝室の写真たての後ろにいつも隠してあったのですが、ロクシーは私と一緒に寝室に入ると必ず、その写真たての前に行き、写真たてと私の顔をかわるがわる見て催促しました。昼間私がいないときには、ロクシーはまるでピッグイヤーの番をするかのように寝室の写真たてがのっているたんすの前で寝ていたようです。
牧羊犬の血をひいているので、ロクシーはまた素晴らしい番犬でした。家の前に人や車が来るといち早く吼えて知らせます。でも一旦家の中に招き入れると決して吼えたり飛び掛ったりしませんでした。また裏庭では、路地を人が通るとマックスと一緒に吼えますが、私達が“No bark”と言うと吼えるのを止めました。マックスが相変わらず吼えていると、私達の方を振り向いて困った顔で”まだ吼えてるよ。いいの? ほっといて?“と言っているかのようでした。
ロクシーと私とマックスは、いったい何回 Fir Grove Park に散歩に行ったのでしょう。毎週末2回としても11年で千回になります。雨の日も風の日も、散歩を御飯と同じくらい(あるいはそれ以上に)楽しみにしている二匹の顔を見ると、休むわけにはいきません。ロクシーは玄関を出ると必ず引き綱を口に咥えて、まるで私を散歩に連れて行くという格好でした。そしていつでも先頭でなくては気がすみません。公園では、新聞の端から端までを丹念に読むかのように、あたりの草のにおいを嗅ぎまわっていました。その新聞はそこを通る犬や小動物のにおいで毎日書き換えられるので、たとえ千回読み直しても飽きることはありませんでした。公園に行く途中に、ブルーという名の犬のいる家があり、ブルーが庭に出ている時には、ロクシーの綱をはなしてやりました。すると、ブルーとロクシーは塀の向こう側とこっち側で唸りながらかけっこを始めるのです。何度も何度も飽きもせずに行ったり来たり走り回って、あの頃は本当に元気なロクシーでした。
2002年の11月頃からロクシーの健康に問題が起き始めました。どういう経過かは忘れましたが、血液検査の際にレバーエンザイムの数値が正常の100倍ぐらい高いと言われたのです。人間用しかないという高い処方薬を飲ませて様子を見ました。最初は効果がみられましたが、それも長く続かず投薬を中止。でも前にもまして元気でハッピーな様子なので、別に治療もせずに半年が過ぎました。その後2回ほど元気のないことがあり、肝臓の超音波検査と細胞検査の結果、肥大しているが悪性(癌)ではないことが分かりました。そうこうしているうちに今度はお尻にこりこりした腫瘍ができていることに気付き、検査の結果これは悪性で癌であることがわかりました。この時点でもロクシーはすごく元気で食欲も驚くほどあり、便通もよく、こんなにいろいろの問題を抱えているとは信じ難いほどでした。
私とゴードンは、こんなに元気なロクシーにいったいどんな治療をしたらいいのかさんざん悩みました。お尻の腫瘍は悪性で、肛門のすぐ脇にあるため、これが大きくなって便やおしっこに障害が出てくることで、ほかは相変わらず元気なのに、安楽死をさせるようなことは避けたいと思いましたが、Dr. Erbachは肝臓のほうが大きな問題と考えていたようです。肝臓が肥大するとそれが他の器官を圧迫して致命傷になりかねないと。それにしてもお尻の癌を放っておく訳にはいかず、Dr. Erbachの紹介で2003年5月末のある日 Clakamas にある Northwest Veterinary Specialists の Dr. Donna Taylor に会いに行きました。Dr. Taylorはとても親切に相談にのってくださり、この時点でロクシーには3つの問題があることを指摘されました。まず肝臓の肥大、それからお尻の癌、そして白血球の異常。肝臓は取りあえず悪性ではなかったし慢性的なもので進行の早さは不明だったので、これはもう運に任そうということに決めました。癌と内臓の手術を同時に行うという選択もありましたが、回復に時間がかかったり手術自体の危険性も増すことを考え合わせて、結局お尻の癌だけを手術してもらうことになりました。白血球のほうは、とにかく今回の手術には問題ないとの検査結果でしたが、後に白血病がロクシーの命を奪うことになったのは皮肉でした。こうしてロクシーはうちへもらわれて来て以来、初めて外泊することになりました。手術の日の朝、ドアの向こうに連れて行かれるロクシーの後ろ姿を見送りながら、もしこれが最後のお別れになってしまったらどうしようと涙が溢れてきました。
ロクシーの手術は無事成功しました。翌日傷口を舐めないようにと Elizabeth collar を付けられたロクシーが帰ってきました。思ったよりずっと元気で食事も普通どおりでよいとのこと。でもElizabeth collarを付けて頭が今までよりずっと大きくなった自分のサイズに不慣れなロクシーは、廊下の壁にあっちこっちぶつかりながら歩くので、家族みんなで思わず笑ってしまいました。手術後のロクシーはすっかり甘えっ子になり、私がデッキチェアで横になると一緒に乗っかってきて窮屈ながらいつも隣で横になっていました。マックスも甘えたくて私のそばに寄って来ようものなら、噛み付く真似をして追い払いました。今から思うとこの夏は私達にロクシーとの残された時間を過ごさせてくれるために、ゆっくりゆっくり過ぎてくれました。Dr. Taylor は、癌の場所が場所だけに回りの細胞を十分取りきれるかどうか心配していらしたけれど、術後のお話ではこの分だと最低9ヶ月ぐらいはおしりの癌の再発はないだろうとのことで安心しました。実際この悪性腫瘍は再発することなく、悪性のリンパ腫と白血病が結局ロクシーの命を奪うことになりました。
異変は2003年7月11日の朝に起きました。前日にあげた骨をかなり大きなまま飲み込んでしまったようで、いつも寝ているユティリティールームの中でもどしていました。何となく元気がなく見えましたが、朝食(その頃は1日一回3カップをあげていました)を全部食べたので、私はいつものように会社に行きました。ゴードンから会社に電話があり、ロクシーが朝食を全部もどしたことを知りましたが、それでもまだ私はそれほど深刻な状態だとは考えていませんでした。お昼休みがすんだころに、再びゴードンからの電話で、とうとうロクシーが立てなくなったので急いで Dr. Erbach のところに連れて行くから、私にもすぐに駆けつけて欲しいと言われました。これがDr. Erbach が前に言っていた命取りの兆候だと彼は考えていたようです。会社からペットクリニックまで、どうか私が着くまで死なないでと、祈りながら私は車をとばしました。着いてみるとビリーも咲も学校から駆けつけて来ていて、クリニックの診察室でロクシーを抱いたゴードンの傍でロクシーの頭を撫でながら泣いていました。確かにロクシーはぐったりとしていて元気がなく、歯茎が真っ白になっていました。Dr. Erbach の所見では、おそらく肥大した肝臓のせいで内出血がおこりひどい貧血状態にあるとのこと。遅かれ早かれこうなることは覚悟していた様子で、輸血をして一時をしのいでも回復の見込みはほとんどないと言われました。ロクシーを囲んで4人で安楽死について検討しました。ビリーと咲は、ロクシーが苦しむのがかわいそうだから楽にしてあげたいという考え、ゴードンも先生の診断を受け入れて安楽死の方向に傾いていました。でも当のロクシーは、元気こそありませんでしたが、気力までは失っていないように私には見えました。目の輝きを失っておらず、まるで自分の身体に何が起こったのかを、理解できずにいるような目で私を見上げているのです。私が首を縦に振ったら、その場で安楽死が決まってしまい二度と元には戻せないのだと思うと、恐ろしくなりました。“いったいだれが100%直らないと保証できるの? もし万が一そうだとしても、ロクシーがもっと頑張りたいのにその機会を与えることなくロクシーの命を奪う権利は私たちにはないと思う。今の時点でひどい痛みに苦しんでいるならまだしも、そうは見えないもの。”と皆を説得しました。結局、“ママの言うとおりにしてあげよう。”と言ってくれたゴードンのおかげでロクシーは命拾いすることになったのです。
私は Dr. Erbach に、腹部のレントゲンと血液検査(CBC)をお願いしました。レントゲンでは、以前にもまして肋骨からはみ出るほどに肝臓が肥大していることが分かりましたが、はっきりとした内出血は認められませんでした。更に血液検査では赤血球の濃度が平均値の範囲をほんの少し下回るぐらいで、直ちに輸血をしなければならないほど緊迫した状態ではないという結果でした。痛みや苦しみに関しては、具合は悪いけれど現時点ではひどい痛みはないということで、取りあえずステロイドの注射をしてくれました。もしもこれでダメでも家で死なせてあげよう。できるだけずっと一緒にいてあげよう。私はその日が金曜日だったことに感謝しました。
家に連れて帰ったロクシーの隣に布団を二枚ひき、咲と私が一緒に寝ました。ロクシーはステロイドのせいで喉が渇いてかなり水を飲んだので、ゴードンが抱いて外へ連れ出しましたが、その晩はとうとう自分の足で立つことすらできませんでした。翌朝、私はいつものようにマックスに朝御飯をあげて部屋に戻ってみると、どうでしょう、あんなに弱っていたロクシーがやっとの思いで立ち上がってドアのところで私を待っていました。まるで、”ママ、私の朝御飯はまだ?“と言っているかのように。そう言えばロクシーは昨日の朝もどして以来何も食べていないのでした。私は急いでひき肉入りのお粥を作って少しずつ食べさせました。歯茎の色も一日二日と日が経つにつれだんだんに赤みが増してきて、少し希望がもてるようになりました。Dr. Erbach からは、今後は常に貧血状態に気をつけるようにとの注意がありました。
こうしてロクシーは持ち前の頑張り根性で危篤状態から見事に回復し、Dr. Erbach をはじめ私達を驚かせてくれました。それ以来ステロイドだけはずっと飲みつづけることになってしまいましたが、それでも短い散歩ぐらいはできるようになり、相変わらず私の後を付いて廻るようになりました。
次のハードルは8月半ばのオレゴンコーストへの家族旅行でした。2001年の暮に亡くなった父の遺骨を太平洋に散骨するために、妹達2人とその家族が集まってビーチハウスで一緒に数日を過ごそうと何ヶ月も前から計画していました。ロクシーは結局この旅行にも総勢16人と一匹 (マックス) と共に参加することができ、しかも駐車場から海岸までの約1マイルの距離を往復とも自分の足で歩きとおしました。途中から52ポン
ドのロクシーをゴードンが抱いて行くことことになるだろうと私達は思っていたのですが、歩きづらいあの砂道をロクシーは一歩一歩頑張って歩きました。”ロクシー、本当に良く頑張ったね“と誉めて頭を撫でてあげると自慢気に尻尾を振っていました。この旅行の後も元気な状態が何ヶ月か続いたので、まるでおじいちゃんからパワーをもらっちゃったみたいねと妹達と話していました。
季節が変わっても小康状態が続き、Thanksgiving と Christmas にはオリンピアのグランマの家に泊りがけで行くことができました。マックス、ロクシー、リリーの三匹を一列に並んで座らせ、ディナーの残りのターキーやロースとビーフのかけらを、順に投げてあげると仲良く自分の順番を待ってキャッチします。またいつものように庭でボール取り遊びもしました。病気もちのロクシーですが、気力では誰にも負けず、しっかりとリリーからボールを奪い取り、ピクニックテーブルの下にもぐり込んで誰にも取らせようとしないのです。リリーやマックスがあちらから攻めようとしているので、私がこっちの端からピクニックテーブルの下に手を伸ばし、ロクシーの首輪をぎゅっとつかんで無理やり口からボールを奪い取り、また投げるとリリーが一番に拾いますが、またロクシーが唸って横取りします。こんなことを何度も繰り返しボール取りゲームを楽しみました。リリーもマックスも、ロクシーがこんなに威張っても大の仲良しです。なぜならもう10年以上もこの三匹は兄弟のように過ごしてきたのですものね。
7月11日以後の数ヶ月間にロクシーの状態に変化があったことと言えば、たまに元気のない日があり、その都度回復はしたけれど、決して前の状態には戻らず徐々に体力が落ちてきたことと、喉の下のリンパ節が腫れてきたことでした。また何度か感染症に罹り、その都度抗生剤も飲ませました。毎日のプレネゾンは小さな錠剤なので、ドッグフードの中に混ぜても食べてくれましたが、抗生剤や肝臓にいいと言われているミルクスィッスル(大アザミの粉末) は、すぐに判って吐き出してしまうので食事とは別にパンの中に埋め込んだり、スライスチーズで巻いたりしてあげていました。それでも敵もさるもの、そのうちに周りのパンやチーズだけ上手に食べて薬を残すようになりました。私たちとロクシーの知恵試しです。ロクシーがとっても食いしん坊で独占欲が強いのを知っているので、わざとマックスを呼び寄せてひとかけパンやチーズをあげてから、ロクシーに薬入りのものを投げてすぐさま、取り上げるふりをすると、ロクシーはあせって飲み込んでしまいました。こんな楽しかったゲームも今では思い出に変わってしまいました。
私はインターネットで悪性リンパ腫について調べるうちに、犬の癌(特にリンパ腫や白血病)には化学療法の効果が見られ、場合によっては数年生存の可能性もあるということ、犬の場合の副作用は人間に比べてはるかに軽いということを知りました。このままロクシーの体力が落ちて、またはリンパ節が大きくなって食べられなくなるのを待つより、体力のまた充分ある今、化学療法を試してみようと決心し、2003年12月19日、私達は再びロクシーを連れて Northwest Veterinary Specialists を訪れました。
今度は化学療法の専門医 Dr. Kim Freeman が主治医となり、親身になって相談にのってくださり、その日のうちに早速第一回目の抗がん剤治療を受けました。ロクシーは食欲がなくなったりもどしたりするどころか、数時間後には喉のリンパ節と後肢のリンパ節の腫れがひいて来たのが分かるほどでした。嬉しくて嬉しくて翌日には、Dr. Erbach に見せに行ったほどでした。ところが3〜4日すると一旦ひいた腫れがまたもどってしまい、それ以降三週間ごとに違った抗がん剤で化学療法を試みましたが、いずれもよい結果はみられませんでした。といってロクシーは副作用で苦しんだりすることもなく、果たして薬のお陰で少しでも延命できたのか、それとも何もしなくても、あれだけ生きられたのかは結局不明です。経済的にも大変でしたが、できる限りのことはしたという自負と、ロクシーは結局最後まで生きている意義のある生活を送れたことは良かったと思っています。それと3月17日が最後の通院になってしまったけれど、ゴードンと私とロクシーの三人(?)での三週間ごとのClackamasまでのドライブも、今ではいい思い出となり、なにより私達が二人三脚(三人八脚?) で頑張ったことで、お互いの絆がより深くなれたと思います。後部座席に座ったロクシーは私の膝枕で一人っ子状態を満喫し、病院では先生はじめスタッフにかわいがられて、ビスケットをもらうのをとても喜んでいましたから。現に最後の診断ノートには病状に関する所見に加え、Dr. Freeman の ”ロクシーは今日もとてもハッピーでした。“というコメントがありました。後で見直したところ、この日の診断書には”白血病第五期“という恐ろしい病名が初めて記されていました。先生はもうあまり長くないことを見通していたのでしょう。四週間後のアポも取ったけれど、この日のドライブが最後になりました。
ところでこの化学療法を受けていた数ヶ月にもいろいろな出来事がありました。大晦日の夜半から、ポートランドには珍しく大雪が降りました。元旦の朝目覚めた時はあたり一面雪景色でした。ロクシーはとうとう年を越すことができました。若い頃はマックスと二匹で雪の中を走り回ったロクシーも、今はおしっこの時だけしか外に出られません。ハプニングは三日の朝に起こりました。いつものように裏庭に出ておしっことうんちをしようとしたロクシーは、雪の表面がまるでスケートリンクのように凍っていることに気付かず、スロープを5メートルほど滑り落ちてしまったのです。癌が進行していて肢に力がなく、しかも肝臓肥大でいつ内出血するかもしれないという爆弾を抱えているロクシーが冷たい氷の上を一生懸命這い上がろうとしているのを見つけた私は、二枚の毛布をつかんでパジャマのまま斜面を滑り降りました。私はこの時の機転の良さに我ながら感心しています。25キロのロクシーを抱えてつるつるの斜面を登るのは無理と判断したので、歩いて上らせようと思いつきました。一枚の毛布を凍った雪の上に敷き、ロクシーを歩かせ、次の毛布ととっかえひっかえでついに上まで上らせることができました。これもロクシーが利口で、私を心から信頼していてくれたからこのチームワークができたのだと思います。こうして遭難(?)から救助されたロクシーですが、翌日ぐらいからおなかの皮膚が真っ赤に変色してきました。氷の上に落ちた時の凍傷なのか、肝臓からの内出血なのか、それとも抗がん剤の副作用なのか、分かりませんでしたが、歯茎の色と食欲は以前と変わりないので様子を見ることにしました。一週間もすると色がだんだん薄くなったので安心しました。
二月二十一日は彩とアレックの結婚式だったので、その前後一週間ほど日本から友達が5人来てうちに泊まりました。この間ロクシーに何かあったらどうしようと心配でたまりませんでしたが、幸いロクシーの状態にもこれといった変化はなく、お客さんたちにもかわいがられて私達は胸を撫で下ろしました。
三月に入ると、後肢のリンパ節がますます大きくなり、若い頃はあんなに跳躍力のあったロクシーでしたが、裏庭からユティリティールームへの入り口の20センチほどの段差を上るのがとてもきつそうになってきました。勢いをつけて前肢で馬とびのようにして上っていました。また神経が一時的に麻痺するのか、立ち上がることができなくなることも何度かありました。そういう時は、ああとうとう来たのかと私とゴードンは本当に心を痛めました。でもしばらくすると幸いにもどうにか立ち上がれるようになりました。相変わらずステロイド剤のせいでおしっこの回数がおおいので、朝のおしっこ以外はもっぱら玄関の前の芝生でさせるようになりました。たまに具合の悪い日にはおもらしをしてしまったこともあり、ロクシーは済まなそうな顔をしていました。床のおしっこを拭きながら、この子にとって自分の身体が思い通りにならないことは不本意なことだと思うと涙がこぼれました。
それでもロクシーは相変わらず私の後を付いて回っていました。私が二階で仕事をしている時には、途中で休みながらもどうにか頑張って二階まで上がってきました。一階にいる時はダイニングテーブルの下がロクシーのお気に入りの場所になりました。そこにいると家族みんなの行動が見られるし、特に私が料理しているのが見えるので、何か食べ物を落とすとすぐに飛んできて拾って食べられるからです。ロクシーがいなくなってしまった今でも、キッチンで何かを落としてしまうと、思わずテーブルの下を振り返って見てしまいます。食事の最中も、テーブルに座って何かをしている時も、ロクシーがテーブルの下にいてくれたことでどんなにか、家族の心が和んでいたか、今は痛いほどよくわかります。
ところでお尻の癌は外科手術で取り去りましたが、悪性リンパ腫や白血病にはいくら化学療法で対処しても、更に肝臓病まで患っているロクシーには完治することはなく、まるでいつ爆発するか分からない爆弾を抱えているようでした。私は昼間会社に行っているので、帰宅した時のロクシーの様子でしか判断できませんでしたが、一日中家で仕事をしているゴードンいわく、日中はまるで私のために体力を貯えているように、ほとんど眠って過ごしているとのことでした。私達にできることはロクシーとの残された日々を大切に過ごすことだけでした。あとどのくらい生きている意義のある毎日を過ごすことができるのか。ロクシーが元気のない日でも、”ほら、まだこんなに食欲があるし、好奇心も失っていないから、ロクシーはハッピーだよね“と、私とゴードンはお互いに慰めあっていました。
3月19日(金) はロクシーにとって辛い一日だったと思います。17日の通院の日の前後からかなり体力が落ちていたので、私は少し早めに帰宅しました。ロクシーはのろのろと私達の寝室から起きて出迎えてくれましたが、すぐにまた寝室にもどり横になってしまいました。一目でいつも違う様子に気付きました。試しに大好物のピッグイヤーをあげてみましたが、口にしっかりくわえたまま、食べずにうとうとし始めました。私はとうとうその時が近づいたことを知りました。ビリーが春休みでEugeneから帰って来ていたので、その晩の夕御飯はいつもよりもにぎやかになるはずでしたが、悲しくて皆、食事が喉を通りませんでした。翌日の(土)に安楽死をお願いすることに決めて、私は最後の晩をまたロクシーと一緒に眠ることにしました。
翌朝目を覚ますとロクシーは昨日とはうって変わって元気になっていました。安楽死の決心が揺らぎました。ゴードンと相談して、もう少し様子を見ることにしました。正直言って、すべてが都合よく運びそうなのでほっとしました。というのは、この日ゴードンとビリーと咲はオリンピアに行くことになっていました。翌日曜日の朝シアトルから日本に発つ咲を空港に送って戻ってくる予定になっていたのです。初めて一人で旅立つ咲の飛行機が離陸するまでは、どうしてもロクシーに生きていて欲しかったのです。私は私で月に一度の俳句会をその日欠席するつもりでいました。でもロクシーが ”わたしなら大丈夫だから行ってきて“と言っているような気がして、結局最後まで迷いましたが行くことにしました。その晩もロクシーはわりと元気で、マックスと一緒に一人ぼっちで留守番の私の心強い仲間になってくれました。その晩は三人で枕を並べました。
ロクシーは、おそらくその晩の留守を守ることを自分の最後の仕事と決めたのでしょう。翌日はまた悪い状態に戻ってしまいました。後肢のリンパ節がパンパンに張っていました。立ち上がるのがとてもつらそうでした。それでもいつもの週末のように、家の前だけでも散歩のふりをして出してあげました。食欲は相変わらずありましたが、この三四日は、固いドッグフードを飲み込むのが辛そうだったので、ごはんと缶詰のドッグフードを混ぜてあげていました。
お昼過ぎに、私が Safeway に買出しに行って帰ってくると、ロクシーは玄関で横になっていましたが、立ち上がらずに尻尾を振ってくれただけでした。起き上がるのがしんどいので、玄関の脇で私の帰りを待っていたのでしょう。ロクシーが癌という直る見込みのない病に襲われたことを知ったときから、私はロクシーの一生を彼女の尊厳を失わずに締めくくらせてあげるための基準を決め、ゴードンもそれに同意してくれていました。それは、次の一つでも起こった場合には安楽死を選ぶというものでした。食欲がなくなることと、私が会社から帰っても玄関まで出迎えてこないことの二つでした。この日、起き上がらなかったことで、ロクシーはなかなか決断のできない私に教えてくれたのだと思いました。午後になってゴードンとビリーが無事咲をシアトル空港に送り届けて帰ってきました。昨日の夜オリンピアから電話でロクシーの容態を聞いてきた咲には、ロクシーの容態が少し持ち直したと言ってあったので、まさか明日がその日になるとは知らずに彼女は今朝飛行機に乗っただろうと思うと、私はほっとしてロクシーに感謝しました。
ロクシーがあんなに苦しそうに喘いだのは、後にも先にもその夜だけでした。心臓や肺が破裂するのではないかと思うほど息遣いが荒くなり、しばらくの間気を失っているかのように見えました。私は身体をさすってあげながら、このまま死んで欲しいとさえ願いました。そうすれば、ロクシーが楽になれるという理由よりも、私達の手でロクシーの一生にピリオドを打たなくて済むからという自分本位な願いからでした。いつ安楽死をさせるかを決断することは、本当に本当に辛いことでした。しばらく苦しそうに見えたロクシーは、発作が過ぎるとまた意識がもどり、さっきのが嘘のように思えました。その晩は二度とあのように苦しむことなく、ゆっくりと休めたようです。でもおなかだけは空くようで、ほぼ2時間おきに御飯を欲しがっていました。私は眠い目をこすりながら、薄暗いキッチンでご飯を食べているロクシーを見つめていました。
月曜日の朝はいつもと同じようにやってきました。でもその日は私達家族の間で決して忘れられることのない日になりました。ロクシーはまた自分の足で立ちあがり、朝御飯を催促しました。ロクシーの食欲はいつも旺盛で多少具合が悪くても、たとえ後でもどすことになっても、とにかく食べました。マックスよりずっと早食いで、最後に女の子には似合わないようなゲップをするので皆で昔はよく笑いました。最後の日も例外ではなく、朝御飯をきちんと食べました。最後の朝もおしっこにはいつものようにかなり高いデッキの端から飛び降りて行きました。後肢が腫れているので、ロクシーはデッキの端で、一瞬飛び降りるのをためらいました。私は回り道をさせようとしましたが、次の瞬間には飛び降りていました。あの一瞬ためらった後姿が今でも目に焼き付いて離れません。ロクシーは最後まで尊厳を失わずに毅然とした態度で生きていました。今になって庭のいつもロクシーがおしっこをしていた辺りを見ると、胸が痛みます。その一帯は土の表面が緑色の膜のようなもので覆われ、雑草も生えていないのです。今更ながらこんなにも沢山の化学薬品がロクシーの身体の中を通り抜けていったのだとを思い知らされます。
ところで前の晩に明日こそは安楽死をさせなければならないと決めてはいましたが、いざ実行に移す時になると二の足を踏みそうになりました。でもゴードンの ”ロクシーに昨日の夜の苦しみをもう一度味あわせたいの?“ の一言であきらめがつきました。それから先は私の意思とは関係なくあれよあれよという間に事が運んでしまいました。でもそれでよかったのだと思います。すべての事が、今思うと偶然の積み重ねというよりも、まるでロクシーの意思によってか、あるいは運命で決められていたかのように起こったような気します。
朝9時前にゴードンに Dr. Erbach に電話を入れてもらいましたが、その日は Dr. Erbach がお休みだとのことでした。知らないドクターにこんなに大事なことをお願いする気にはなりませんでした。といってあと一日待つことはできないので、以前 Dr. Erbach から教えてもらった自宅で安楽死をさせてくれるドクターに電話をしました。Dr. Carroll というドクターが電話でゴードンの相談にのってくれました。ただ、今日するのなら、朝の10時しか空いていないというのです。私は判断を迫られました。そしてとうとう10時にお願いすることになり、一時間足らずが私達に残されたロクシーとの最後の時間になりました。ロクシーは廊下の真中に横たわっていました。そこなら台所と私達の寝室の通り道なので皆の動きが見えると思ったのでしょう。その日、3月22日(月)は、ポートランドの春には珍しく青空の広がった素晴らしいお天気でした。最後の時間はこんなに気持ちのいい空気の中で過ごさせてあげたくて、ゴードンにロクシーをデッキまで運んでもらいました。体力をすっかりなくしたロクシーが寒くないように毛布を掛け、私は隣に座りました。ロクシーはこれから起きることが分かっているかのように、薄目を開けて最後の時を静かに迎えようとしていました。私はロクシーの顔をしっかり覚えておきたくて、ロクシーの正面にまわり頭を撫でながら、“I love you, Roxy” と今までに何百回も言った言葉を繰り返していました。そして、”天国に行ったらおじいちゃんを探すんだよ。“とも。
ロクシーはこうして、この世を去りました。彩の結婚を無事見届け、ビリーが春休みで家に戻って来るのを待ち、そして咲が日本に出発するのもちゃんと見送って、素晴らしい春の朝を選んで、ペットクリニックの病室ではなくいつも座っていたデッキの上で、静かに眠るように、その一生の幕を閉じました。
ところで、ロクシーのことは、頭ではあれで一番よかったのだと分かってはいるのですが、心がひりひり痛くて、一ヶ月以上経った今でも考えると涙がとまりません。骨と皮になってしまった前肢と、大きくなったリンパ節が体液の循環を妨げるせいで3倍ぐらいに膨れた後肢をずっとさすってあげていた時の感触と体温がまだこの手のひらに残っていて、とてもせつないのです。お尻の癌の摘出手術後すっかり甘えっ子になってしまったロクシーは、私が仰向けに横たわると必ず隣にぴったりとくっついて横になり、頭を私のおなかのあたりに乗せるのがくせでした。今でも横になるとおなかの辺りがロクシーの頭の重さと暖かさを待ってしまうのです。そんなふうについついこの一年足らずの闘病中のロクシーばかりが目に焼き付いてしまっていましたが、それ以前の10年以上はとても元気でやんちゃでハッピーなロクシーでした。その頃のこともちゃんと覚えておかなければと思い、これを書きました。ロクシーのおかげで本当に楽しい11年半を過ごすことができました。うちの子でいてくれて本当にありがとう。
We miss you,Roxy.
ロクシーを詠んだ俳句
ロクシーなき後、シェルターからHollyを迎えました。Hollyとは、まるでロクシーからの贈り物ではと思うような運命の出逢いでした。「天国からの贈り物」
(2004/5/18)(オレゴン、U.S.、Y.Mさん)