動物孤児院 (27)モラルの問題


(27) モラルの問題

 

1月は九州の実家に帰っていた。近所に市に所属する広場があって(催し物がある時は駐車場になる)、夕方になると、犬の大運動会が始まる。都会では「ドッグラン」と、ニューヨーク語で呼ばれる空間も田舎では、ただの「広場」である。
移植ゴテや、ビニールの袋を手にした飼い主たちが、流行のゴールデンレトリバーや、ラブラドルレトリバー、柴犬、そして、雑種の愛犬たちを連れて集まる。戯れる犬たちは本当に幸せそうで、見ていて楽しい。「よかったね、きみたち、いいご主人様に恵まれて」と心で話し掛ける私。
だが、こんなにラッキーな犬ばかりとは限らない。私は短い日本滞在の間、見たくないもの、聞きたくないものを見て、聞いてしまうのが恐い。

朝6時、犬の哀れな鳴き声で目が覚める。近所の角の家から聞こえてくるのだ。中型の日本犬が犬小屋に閉じ込められている。それは北向きで、犬小屋はその家の窓からは見えない位置にある。要するに、犬は一日中、陽の当たらないじめじめした一角で、ひとりぼっちなのである。不思議なのは、その家の隣人たちには聞こえないのだろうか、ということだ。
昼間、近所の古いプレハブの家から、犬の鳴き声がする。この犬を私が見たのは2回だけ。それも真夜中に。牛のように大きなウルフハウンドだった。日中は母屋には誰もいないので、犬は物置小屋に閉じ込めてあるようだ。
どちらのケースも、ドイツだったら隣人が警察に電話をして、犬は「動物孤児院」に保護されるところだ。(日本に、動物管理センターでなくて、動物孤児院があったらどんなにいいだろうか…。それこそが私の夢だ)


2月の初旬、母を連れて、植木市(いち)に出かける。パンジーを買って歩いていると、引き綱をつけたままのシーズーが私たちにくっついてきた。人ごみの中で飼い主にはぐれたのだろうと思い、私は案内所に連れて行って、アナウンスをしてもらうことにした。
タクシーを待っている間、「もしかして、誰も現れなかったらどうしよう?」と心配になり、案内所に戻り、私の電話番号を書いて、「飼い主が現れなかったとしても、ぜったいにぜったいに、動物管理センターに引き渡さないでくださいよ。殺処分になりますから!」と念を押した。
電話番号を渡して、タクシー乗り場に行こうとすると、子供の手をひいた女性が現れ、シーズーを引き取って行った。「どうもありがとうございました」と彼女は言ったが、「何か納得のいかない変な気持ち」が私に残った。
 案の定、その夜、電話がかかってきた。シーズーの飼い主の女性だった。「ああ、やっぱり」と思った。かかってくると思っていたのだ。それも、お礼の電話とかではなくて。
「実は事情があって飼えなくなったんです。引き取っていただけないでしょうか」

「いろいろな人に聞いてみます。動物管理センターに連れて行くようなことだけはしないでくださいね」と答えた。
手当たり次第に友人知人に電話をしたり、メールを送ったが、「飼いたい」という人は一人もいなかった。まだ、探している最中であるが、このまま見付からなかったら、どうしたらよいのだろう。ドイツに帰ってくる2日前のできごとだった。

日本で、犬に生まれると、ラッキーかラッキーでないかの差があまりにも激しく、私はラッキーでない犬のほうにばかり目が行くので、実に辛い。「閉じ込めておくなら飼うな」「一生面倒を見る覚悟ができていないなら飼うな」と、一般の人の(愛犬家でなくとも)当然の意見、モラルとなる日が来てほしいものだ。


(2005/03/03)
 

(小野千穂)

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