日本の動物愛護ボランティアを考える
日本の動物愛護ボランティアを考える
日本では、有史以後、歴史の中でボランティア活動という事例を私は不勉強な為、知りません。
動物愛護ボランティアとは?
ボランティアとは、社会のためになることを無償で奉仕すること。そんな一言で済むものではないのでは?と思う今日この頃なんですね。
かつては、日本で無償とは言えないけど、命を懸けて奉仕した事例はたくさんあります。戦後日本が復興するにあたって、日本人が精魂込めて日本の産業の復興を果たしました。この事例は、今の日本を作る大きな礎となっていることはある年齢以上の日本人のすべてが感じていることでしょう。
近年になって阪神淡路震災、普賢岳、有珠山、三宅島、等の災害をとおして懸命にボランティア活動をされた人達がいました。
しかしおおよその日本人は、無償で奉仕することに不慣れな民俗なのかも知れません。
日本人は目標に立ち向かい、自分が食べていくために精一杯努力する民族なのではと思います。
それは誰のためでもなく自分の為の努力だと考えます。
欧米人は、ボランティア活動をすることで人としてのプライオリティーを確立し、社会の一員としての責任を表向きですが果たしたい、ある意味でステイタスとなっているのでしょう。裕福になったから、これからは社会のために何か貢献したいという方々で成り立っているのです。
日本人は、ボランティアをする事に偽善ではないかを自問自答するタイプ、何か報酬を求めるつもりでないけどそのように思われてしまう人、ボランティアに行ったら食事も寝床も現地でただでしてもらえると思いこんでいる人、すべて自前でボランティア活動をする人と、千差万別です。
犬を愛し、猫を愛し、可哀想な犬猫を助けたい、1頭でも命を助けたい、そんな気持ちからボランティアをしたいと思う気持ちは動物を愛する人ならばみんなもっているのです。
本来のボランティアって何だろう?
人が一人一人の感性から、手を差し伸べたいと思う純粋な思いこそボランティアではないでしょうか。しかし、無償でボランティアが出来る人はどれだけいるでしょうか?無償とは、ボランティア活動が出来る自由な時間がある、生活に余裕の資金をボランティアにまわすことが出来る資力があると言うことです。
ボランティアは、生活のための労働の時間を割いてまですることでしょうか?ただ犬や猫が可哀想として救うことが、その人にとって限界を超えてしまうこともあるのです。可哀想な犬猫を次々にレスキューして多頭飼育となり、挙げ句の果て山梨のような犬捨て山となりかねないのです。
飼い主さんが、人として充実した暮らしをしているからこそ、我が家の愛犬以外に手を差し伸べることが出来るのです。
また精神的な面では、1頭の犬を救おうと、毎日を糧をその日暮らしで得ている人が差し出した、100円の寄付の重みは、その人にとってはこの犬を助けたいと言う気持ちの表れです。
もしも1頭の犬を救おうとして差し出した100円が、拾ったお金だったらどうでしょう?またそのお金が盗んだお金だったら?そのお金が、売春で得たお金だったら、麻薬を売って得たお金だったら、恐喝して得たお金だったら。殺人を犯して得たお金だったら。
その結果、その犬は生き延びられ、幸せな余生を送ることが出来たら、その寄付金は有効に最大限使われたと評価出来ると思うのです。
お金の価値って何でしょう。
その寄付しようと思う人は、努力して得た金をこの犬を救いたいと思って差し出すのです。
(2006/11/3)(LIVING WITH DOGS)